「ていっ」

流川はにすねを蹴られた。



103.…だけど ベイビー!!




 流川がにすねを蹴られる、ちょっと前。
電車から降りて家まで歩く道中、

『まあ、優しくしてやれよ、さんに。……お前に出来んのは、たぶんそれくらいだ』

流川楓は昨日に引き続き、仙道彰に言われた言葉を思い出していた。

(優しく、だと?)

流川は目を鋭くさせる。
優しく、とはどういうことを指すのだろう。
女に優しくするなど、思ったこともなければしたこともない流川には、仙道の発言は最早理解の範囲を超えていた。
とても日本語には聞こえなかった。
いっそイチかバチか、英語で説明されたら伝わったかもしれない。
イヤホンから聞こえる流暢な英語に意識を傾けていたら、そんなことが思いついた。

(『優しく』……『kind』……?)

そもそも、あのどあほう女に果たして優しくする価値などあるのだろうか。
昨日流川のおかずを奪った恩知らずの同居人は、きっと今も姉と一緒になって流川への悪口で盛り上がっているに違いなかった。

(犬猫だって餌の恩は忘れねーぞ、どあほう)

そう考えると、は犬猫以下だ、ということになる。
案外当たってんのかもな、と思っていると、

「お……」
「ニーニー」

本当に、猫がいた。
子猫だ。
ニーニー鳴きながら、コロコロと空き缶をいじっている。
親猫はどこにいったのだろうか。
空き缶は風に吹かれて道路の方へと転がる。
子猫はそれにつられて道路の方へとついていく。

「あぶねーぞ、どあほう」
「ンナー」

道路に飛び出す前に流川に首根っこを掴まれた子猫は、なんとも情けない声を上げた。
そのまま子猫をプラプラさせながら流川は、近くにあった適当な公園へと足を踏み入れた。

「道路には出んじゃねーぞ」
「ニー」

こいつ鳴き方下手だな。
流川から解放された子猫は、自分の尻尾にじゃれついてくるくると回り出す。
流川もそれを何となく眺める。
猫は、いい。
気まぐれで。
自分に懐いても懐かなくても、可愛らしい。
それは、流川が「猫はそーいうもんだ」と認識しているからだ。
つまり流川にとって、猫に好かれようが好かれまいが、そんなことははっきり言ってしまえばどうでもいいのだ。
ただ一方的に、何となく好きでいられて、気楽だ。
だから、猫は、いい。

「ちっちっ」

適当に落ちていた枝を拾い子猫にじゃれつかせる。
この子猫は単純なタチらしく、ヒョイッと流川が枝を高く上げるフェイントを何度か繰り返しても、その度に引っかかった。

「ナーナー」

子猫は枝にじゃれつきたくて必死そうな声を上げる。
その声は、どこか寂しそうな音色を含んでいて、流川は思わずその猫を、



と呼んだ。
そしてそれに応えるように、

「ナーナー」

子猫は鳴いた。

「……オマエなのか」
「ナーナー」

またも返事をする子猫。
こいつは本当に「」という名前の猫なのかもしれない、と流川は思わず首輪がないか確認する
だが、そんなものは見当たらなかった。

「…………なら」

流川はバッグからバスケットボールを取り出す。
今日は使わなかったが、基本的に流川はいつもボールを持ち歩いている。
ころころと子猫の前にバスケットボールを転がす。
子猫はボールに興味を惹かれたようだった。

「ニーニー!」

子猫は全身でボールに飛びつく。
ガバッとボールにしがみついた後、ズリ落ちた。

「やり方がちげぇ」

子猫からボールを奪い、弾ませてみる。
こうやるんだ、と言わんばかりに。
子猫はバウンドするボールを目で追い、首から上を激しく動かしていた。
その様子に流川は思わずぷっと笑う。

「やってみろ」

流川はボールを再び子猫のもとに転がす。
だが、子猫は、

「にゃっ」
「てめー」

猫パンチをして、ボールを流川のもとに弾き返した。
猫はこの気まぐれさがいい。
猫がバスケットボールを拒絶したところで、流川は怒ったりなんかしない。
でも、

なんだから、バスケしなきゃダメだ」
「ナー」

流川は子猫に言い聞かすように、子猫を抱えてボールの上にへばりつかせた。
子猫は「ナァァ」と、嫌そうな、情けない声を上げる。
ボールが転がり、コテン、と子猫が落ちる。
子猫は再び「ナァ~」と情けない声を上げた。
流川はその猫を再び、なんとなく、

「…………

と呼んでみた。

「ニーニー」

子猫は再び返事をする。

「てめー呼ばれりゃなんでもいいのか」

子猫は無邪気に樹の枝をいたぶって遊んでいる。
たぶん、「」だろうが「」だろうが呼ばれれば何でも反応するんだろう。
この適当さも、猫の可愛らしい由縁だ。
そして思わずの下の名前で呼んでしまったのは……、思いつく名前がそれしかなかったからだ。
流川は試しに、

「田中」
「ナーナー」
「佐藤」
「ナーナー」

色んなレパートリーで名前を呼んでみたが、やっぱり子猫はそのたびに律儀に返事をした。

(やっぱじゃねーじゃねーか)

当たり前である。
流川はボールを拾い、バッグにしまう。
公園の茂みの向こうに、視線を感じたからだ。
たぶん、コイツの親猫だろう。
流川が立ち去るのを待っているのだ。

「もうはぐれんじゃねぇぞ」
「ニー」

子猫に注意をして、流川は立ち上がる。
子猫は返事だけはいい。
しかし、この返事が適当なことなど流川はとうに知っている。


「ナーナー」
「桜木」
「ナーナー」

ほらやっぱりな。
流川は口の端を吊り上げ笑ってしまう。

「じゃあな。……
「ニーニー」

なんでちょっと鳴き方違うんだよ。



(優しくする……優しくする……)

子猫に癒やされた流川は、自分にそう言い聞かせながら歩いている間に家の前についた。
優しくするのだ、に。
どうすればいいか、見当もつかないが。
意を決して玄関をくぐると、

「あ」
「…………」

いきなり、いた。
猫ではない、人間のが。
シャワーを浴びる準備でもしているらしく、着替えらしきものを抱えている。
しまった。まだ具体的にどうすればいいのか結論が出ていない。
漠然と『優しくする』と念じてみたものの、バスケのイメージトレーニングと違って何も浮かび上がってはこなかったのだ。

(やさ、しく、する……?)

気がつくと、はこちらを不機嫌そうに睨んでいた。
この女は流川が不機嫌になると、いつもその倍は不機嫌になる。
最初に怒っていたのはこちらなのに、実に理不尽である。
とりあえず、まずは、昨日までのことを許してやろうと、水に流してやろうと、流川は口を開きかけた。
が。

「ていっ」

流川はにすねを蹴られた。
しかも、

「シャワー浴びるから脱衣所侵入してこないでよえっち!」

と早口で言い捨てて。
本気で、つまみ出してやろうかと思った。
人がせっかく謝ろうとしてやったのに、すねを蹴った挙句変態扱いとは何事か。
流川はズカズカと玄関に上がり、そのまま洗面所に向かう。

「きゃー!ホントに来た!」

カーテン一枚隔てた脱衣所の向こうでは、が流川の気配に勝手に勘違いして悲鳴をあげていた。

「手ぇ洗いに来ただけだ。テメーのまっ平らな体なんざ興味ねぇ」
「まっ……!!??」

カーテンの向こうでが絶句しているのがわかる。
流川は勝利を確信し、手洗いうがいをしてから洗面所を後にした。



 が、本当に猫だったら。どんなに溜飲が下るだろう。
間違いなくオレは猫のの首根っこを捕まえて、プラーンとさせて家からつまみ出す。
そんで猫のが「家に入れてよ~。餌ちょーだいよ~」なんて言ってるのを見て、満足気に笑うのだ。
「ほら見ろ。やっぱオレがいなきゃなんも出来ねーじゃねーか」と言って。
流川は自分でもちょっと面白いこと思いついたな、と思ってしまって口の端を釣り上げた。

「あらやだお父さん。楓が笑ってるわ」
「……楓だって笑う時くらいあるだろう」

リビングのソファでニヒルな笑いを浮かべていた流川は、母親に見つかってしまった。

「なにか良いことあった?」
「……別に」

むしろ最悪なことしかない。
なんだって、人間のはあんなにどうしようもないどあほうなんだろうか。
流川はただ優しくしてやろうと思って、謝ろうとしただけなのに。
あそこまで喧嘩腰の態度でこられてしまっては、受けて立つしかなくなる。
そうだ。なぜは怒ってるくせして、やたらこっちに突っかかってくるのだろうか。
怒ってるなら無視すればいいのに、わざわざ喧嘩を売りに来て何がしたいのだろうか。

「きっと構ってほしいのよ」

流川がへの文句を言っても、母親はニコニコ笑うだけだった。
そして流川は、いきなり優しくできなかったな、とちょっとだけ後悔した。



(優しくする……明日から)

結局今日の夕飯も昨日と似たような展開を迎え、流川はとまともに口がきけないままで一日が終わろうとしていた。
ベッドに入りながら、流川はに優しくする、という目標を掲げていた。



 何もない空間に、女と男がいる。
男が女にのしかかり、ナニカしている。
あまり長く見ていたくはない光景だ。
目をそらそうとすると、流川はその女が何者であるか唐突に理解できた。

――!!

気がつけば何もなかったはずの空間は、薄汚い廃工場へと変わっていた。
男は今もを組み敷き、嬲っている。
早く助けなければ。
そう思うのに、流川は身体が動かせない。
自分の体がどこにあるのか、わからないのだ。

!オレは?オレはどこにいる!?)

流川は焦った。
焦ったが、自分が今どこにいるのかわからない。
奇妙な感覚に襲われ、流川は声の限り叫んだ。

!!」

あ。声が出た。
と思った時、流川は急激に身体の感覚を掴んだ。

(オレだ)

男は、流川だった。
自分こそが、を無惨にも犯している男そのものだった。

(違う!オレがしたいのはこんなことじゃねぇ……!)

とんでもないことをしてしまった、と思って、流川の喉が焦りで渇いていく。
流川に組み敷かれているは、顔を覆って泣いていた。

(違う、オレじゃねぇ)

だって、自分はただ、にバスケをして欲しかっただけだ。
こんなことは違う、望んでない。
焦って飛び退こうとしていると、ズクリと、下半身に生暖かい感覚がする。
自分のソレが、のソコに深々と突き刺さっているのがわかった。
違う。自分は決してそんなつもりでを拾ったんじゃない。
少なくとも、こんな嫌がると……!
流川はズルリと、ソコから自身を抜こうとする。
だが、その動きは流川に快楽を与え、官能を呼び起こしてしまった。

(どっちも一緒じゃねーか。嫌がるにバスケさせんのも。こういうことすんのも)

流川の頭の中で流川が囁く。
そうだ。
どっちも一緒じゃないか。
この女の意思なんて関係ない。
自分のやりたいようにやってしまえばいいんだ。
流川はそう思って、一度引き抜きかけたソレをねじ込み直し、自分が満足するまで腰を打ち付けた。
はその間、ずっと顔を覆って泣いていた。



(最悪だ…………)

下着に粘つくやっちまった感あふれる液体の存在に、激しい後悔に襲われながら流川は起床した。
時計を見たら、もうすぐ5時だった。
さっさと始末して練習の準備をしないと、にバレる。
流川は罪悪感に襲われる。
よりによって、あんな夢を見るとは。
しかも、ちゃっかり欲望を吐き出して。
夢精自体は、中学の頃から幾度か経験があった。
だが、そういう時の夢を覚えているのは、初めてだった。
なんでもいいからとっとと起きて、どうにかしなくては。
そう思うのに、身体がだるくてなかなか起き上がれなかった。



 ティッシュで拭った下着を、タンスの中にあった適当な衣類と一緒に洗濯カゴへと放り投げておいた。
手をよく洗い、自分の欲望も流れろと念じる。
しかし、間の悪いやつとはどこにいるもので。

「ん?あ。オハヨー……」

いつもより若干早起きのが、寝ぼけ眼のまま洗面所にやってきた。
はまだ眠いのか目をゴシゴシこすり、「あれぇ?昨日洗濯したはずなのにまだあるぅ……おっかしいなぁ……」と洗濯カゴを見て呟いた。
そしてそのままカゴの中の洗濯物を掴み、洗濯機に突っ込もうとする。

「い、いい」

流川は焦ってから洗濯カゴを奪い取る。

「へ?なんでぇ……?昨日アタシ当番だったし……」

メイクをしていないタヌキ顔のは、眠さで更に顔をとろけさせながら言った。
流川はぱっぱと洗濯物を洗濯機に放り投げる。

「どしたの……?るかわが家事するなんてめずらしー……」

寝ぼけ気味のは、流川と喧嘩していることを忘れているらしい。
何もかもウヤムヤな内に片付けたかった流川は、空になった洗濯カゴを元の位置に戻し、の両肩を掴んだ。

「や……」
「え?なに?」
「優しく、する。だから、仲直りだ」

夢の中で流川にどんな目に合わされたのかを当然のことながら理解していないは、流川の必死さとは裏腹に「ん?そお?」と相変わらず寝ぼけた返事をした。



 さて、流川にとって一週間ぶりの学校である。
と一緒に教室に入ると、何故かクラス中がざわざわし始めた。

(……なんだ)

誰かに遠巻きにギャーギャー騒がれるのは慣れっこだが、どうもいつもと様子が違う気がする。
どよめきの種類が違う、気がする。
普段周りをあまり気にしない流川ですら違和感を覚えたので、実際のクラスに流れた気まずさは相当なものだったに違いない。

さん……。流川くんとは大丈夫なの?」
「うん、もうヘーキ。流川、アタシと仲直りしたいんだって」
「あ……そうなの。ならいいんだけど……」

席に座ったとコソコソ話す女子を、流川は自分の席から睨んでいた。
仕方がない。が隣の席にいる以上、嫌でも会話が聞こえてくるのだ。

「えっと……じゃあ、大丈夫?土曜日の……」
「あー、アレ?ダイジョーブ。ガムテープで隠したから。流川鈍感だしバレッこないって」
「そ……そう……」

流川に睨まれていることに気がついた女子が、そそくさと立ち去った。

(なんだガムテープって。コイツ、オレがいねー間に何やらかした)

さすがの流川もちょっと気になり、身の回りを調べる。
机を隅々まで覗いていると、裏側に違和感があった。
机をひっくり返し、その正体に気がつく。

「ガムテープ……」
「あ!やば」

が口を滑らせる。
クラス中が再びどよめき始める。
バカな男子達は「うわー、ちゃん流川に殺されっぞ」「今のうちに逃げとけって」と口々に言っている。
流川はそのガムテープをペリっと、容赦なく剥がす。
ガムテープの下には、がやったであろう「絶交だ」という文字が彫られていた。

「…………なんだこれは」
「え、えっとぉ~」

珍しくはふてぶてしい態度を取らず、素直に動揺している。
悪いことをしたという自覚はあるらしい。

「ムシャクシャしてやったっていうか……。ワカゲノイタリ?ってやつ?」

はテへ、というように、「ゴメンネ?」と軽く謝ってきた。

「テメー人の机に何しやがる」

そんなの間違いなく出来の悪いであろう頭に、流川は容赦なく鉄拳を振り下ろした。

「イッテエェェェ!!!なんでだよ!流川アタシに優しくするって言ったじゃん!」
「どあほう」

人の優しさにあぐらかいてんじゃねぇ。