「怒んない?」
「ああ、怒らない」
今までの2年間について大人しく白状した幼なじみの少女は、「じゃあ、今はどこでどうしてるんだ?」という質問に再び押し黙った。
傷つけないように、極力優しく話しかける花形。
心の中では、(何かオレに怒られるようなことをしてるのか)と動揺しながら。
「今ね、友達んちに泊まってんの」
「そう、か。いつからだ?」
「今年の、4月から」
随分長いな、と内心驚く。
この様子だとまだしばらくはその家にお世話になるつもりだろう。
「赤木さんのところか?」
花形は、かつてのチームメイトだった赤木晴子のことを指して言った。
決して兄のつもりで言った訳ではない。
だが、はううん、と言った。
これ以上赤木さんにメーワクかけらんないよ、と。
「それじゃあ……、誰だ?オレの知ってる奴か?」
「う、うん。……ねぇ、ホントに怒んない?」
「ああ、怒らないぞ」
本日何度目かのやり取り。
は意を決したように白状した。
「るかわんち」
その瞬間、花形の眼鏡に衝撃でヒビが入った。
だが現実を受け入れないように、何事もなかったように眼鏡をクイッと持ち上げ位置を直す。
「悪い、よく聞こえなかった。もう一度、言ってくれないか?」
「流川楓くんのおうちです」
「!お前というやつは!」
花形透は非行少女に渾身の空手チョップを食らわせた。
「イッテエエエ!!!怒んないってゆったじゃん!ウソつきー!」
「それとこれは話が別だ!何を考えてるんだお前は!!」
話し合いは、まだまだ終わりそうになかった。
61.しっかりしてよ!もう
藤真とも別れ、会場に戻ってきた三井と流川を迎えたのは、意外な人物だった。
「る、流川くん!……と、三井さん!」
オレはオマケか、三井は話しかけてきた赤木剛憲の妹、赤木晴子を見ながら思った。
なんだかひどく慌てた様子だが、いつも流川の前ではワタワタしがちな娘なのであまり気にならなかった。
「……おう」
「どうした、なんかあったか」
「あの、椎名先輩たちから、ちゃんが翔陽の花形さんたちと会ってたって聞いて……!」
「……!知ってんのか?」
三井は驚く。
表情はあまり変わらないが、流川も若干目を見開いていた。
「はい。あたしとちゃん、中学の時チームメイトで……。花形さん達、よく見に来てくれてたんです」
でも、と赤木晴子はそこで言葉を区切った。
「『でも』?」
喰い付いたのは流川だった。
「でも、その、ちゃん、色々あって……」
「『色々』?」
ガンガン聞くな、こいつ。
流川に睨まれて赤木晴子は思わず怯む、と思いきや。
彼女は流川をまっすぐ見つめ返して、質問をした。
「ちゃんは、流川くん達に何か話した?」
「……イヤ」
すると、赤木晴子はごめんなさい、と言って、これ以上あたしからは何も言えない、と続けた。
その発言を受けて、一旦収まったかに見えた流川楓の怒りのオーラが爆発した。
「なんでだ。どーいう意味だ」
「る、流川くん」
流川は晴子の肩に掴みかかる。
「お、おい流川!もういいだろ、そんなことに直接聞けよ」
慌てて止める三井。
どうしてコイツはの話になるとこんなにムキになるんだよ、と驚く。
さすがに赤木晴子に怒りをぶつけるのはお門違いだと思ったのか、流川は「ワリィ……」とだけ言ってその場を離れた。
「なんなんだよホントによぉ……」
流川の背中をを見送りながら三井は呆れる。
「ワリぃな、大丈夫だったか?」
三井は流川に掴みかかられた晴子を気遣う。
しかし、
「る、流川くん……!」
流川に超至近距離に近づかれてしまった赤木晴子は、既に別の世界にトリップしているようだった。
おいおい、と三井は頭をぽりぽりと掻いた。
しばらくして、会場に戻ってきたのは花形透だけだった。
「は?」
「先に家に帰った。三井、流川を知らないか」
花形は三井の質問に簡潔に答えると、流川の所在を尋ねた。
「さあ……中には入ってねぇと思うが……」
その時、会場の中から「うおおおお!!」という歓声が聞こえた。
今は確か、一宮と陵南が試合中だったか。
なかなか白熱しているらしい。
「流川!待ってくれ、聞きたいことがある」
偶然こちらに戻ってきた流川を見つけた花形は、そのまま流川の方向に駆けて行った。
三井にとっては何が何やら、という感じだった。
閉会式を終え、新人王を獲得し、安西の元に行って胴上げをして。
今日一日で色々あったが、まだ片付いていない問題がいくらでもある。
流川楓は家に帰る道中、今日の試合のこと、そしてのことを考えていた。
あの後、ひとりで戻ってきた花形には、『悪いが、しばらくのことを頼む』と言われた。
それが流川には気に食わなかった。
なんだその、まるで『一旦お前に預けとく』みたいな言い草は。
気に入らねえ。
流川は、ずっと。
今日のことで気がついたのだが、ずっと。
――のバスケを知っているのは、オレだけだと思ってた。
くだらない、子どもじみた独占欲である。
でもそうだと思ってた。
4月、ストリートコートでのバスケを知った時、その魅力に眼の奥がチカチカした。
『コレを知ってるのはオレだけだ』。
流川は自分だけの宝物を見つけた少年のように興奮した。
それでいて、『コレをバスケ界に魅せつけてやれたらさぞや気分がイイだろう』と思った。
だからわざわざ家に引き取ってまでバスケ部に入れた。
流川も流川で、自分は誰にも負けないと思っていた。
自分もも、どこまでも強くなれる、そんな確信を抱いていた。
だから、後は勝手に事態が動くだろうと思ってた。
だが、蓋を開けてみればのバスケを知っていたのは自分だけではなくて。
結果、女子は1回戦で敗退し、自分も仙道彰という男の前では負けを認めるしかなかった。
――強くなりてぇ。誰よりも、もっと。
それは、お前だって同じじゃないのか。。
家に帰るなり、母親が「IH行けるんですってね、おめでとう」と言ってきた。
先にが報告したのだろう
「は?」と聞くと、「お部屋よ」と言われたので流川は階段を上がった。
今日こそ全部聞き出してやる、そんなつもりでドアを開けた。
「」
「あ、るかわおかえり~」
カリカリカリカリ。
こちらも見ずに、勉強机に向かう。
「……何してんだ、オマエ」
「何って、勉強。明日テストじゃん」
カリカリカリカリ。
がシャーペンを走らせる音が響く。
たまになんかトゥートゥー言っては首をひねっている。
英語の勉強をしているらしい。
「おい」
「はいはい、コレでしょ。書いといたよ、アンタの今後の課題」
はノートを一枚ちぎってよこす。
そこには、今日のオレのプレイの分析と指摘が事細かに書いてあった。
「……おう。ちゃんと、見てたか」
「見てたよ。だからそれ書けるんでしょ。ちょっと後半2分くらいないけどさ」
三井センパイの様子見に行ってたりしたんだよ、とは勉強机に向かいながら言った。
「どう思った。それで」
「ん?まあ勝ててよかったじゃん」
「そうじゃねえ、おい、こっち向け」
流川はの肩を掴んで振り向かせる。
「何?それさ、ベンキョーの後じゃダメ?明日のテストさ、バスケ部のコンゴってやつをサユーするかもしんない大事なテストなんだけど」
テストとバスケ部にどんな因果関係があるのか、流川にはわからなかった。
だが、の使っているペンの先に、妙ちきりんなキャラクターが取り付けられているのを見て気が抜けてしまい、流川は先程まであった自分の中の怒りのような感情がしゅるしゅると抜けていくのを感じた。
「……何だそのペンは」
「え、知らないの?『招きたぬきペン』。アタシ小学生の頃から使ってるよ」
でべその招きたぬきが、のペンの上に乗っかっている。
……似てる、と。
アホ面加減が、特に。
思わずまじまじと眺めてしまう。
「……?なに?この話したかったの?」
そんなわけあるか、どあほう。
結局、夕飯までは勉強の手を休めること無く、流川もからもらったメモを眺めながらベッドの上で過ごした。
「つーか流川はベンキョーしなくていーの?」
「今更しても意味ねー」
「おー」
それもそうか、という風に、はそれ以降こちらを気にすることはなかった。
夕飯が終わり。
カリカリカリカリ。
「おい」
「なに?」
「テメーいつそれ終わるんだ」
はまだまだ勉強をしていた。
いつからそんなガリ勉キャラになった。
大事な話があるんだ、こっちは。
やっぱりさっさと勢いのままに言やあよかった。
「もーうっさいなー。流川も悪あがきくらいしろよ」
が教科書を投げつけてくる。
世界史だった。
テスト範囲と思われるところの最初と最後のページが折られている。
捲ってみる。
偉人の顔に落書きがされていた。
あまり使い込んでる様子はない。
というか、こいつはさっきから英語と現国しかやっている様子がない。
いいのか、それで。
「いーんだよ、世界史はまゆまゆの担当だから」
よくわからんが、いいらしい。
流川はベッドに座り、無意味に教科書をパラパラとめくっていく。
「……くぁ」
眠い。
流川はそのまま眠り込んだ。
「んー、こんなもんかなっと……」
12時を過ぎた頃、とりあえず勉強に区切りがついた。
こういうのはあまりやり過ぎても良くないらしい。
後は運を天に任せよう、とは勉強道具を片付けていく。
「そーいや流川、話って……」
……寝てる。
流川は世界史の教科書を持ったまま、のベッドで眠りこけていた。
「おーい、るかわー」
ペチペチ顔を叩くも、起きる様子はない。
しょうがないなー、とは溜息をつき、大男をベッドから落ちないように中心の方に移動させた。
タオルケットを掛けてやる。
流川はグースカ眠っている。
激戦だったんだ、疲れたんだろう。当たり前だ。
「センドーさん、強かったねー」
は寝ている流川に語りかける。
まるで子供をあやすように。
ベッドの端に腰をかけると、スプリングが軋み、沈んだ。
「ねー、るかわー。アタシね、アンタには本当に感謝してんだ」
花形透とはもう、会えないと思ってた。
少なくとも会う気はなかった。
バスケだってそうだ。
もう二度と、する気はなかった。
バスケだけじゃない。
勉強だって学校だって友人だって。
いや、ヘタしたら食事だって呼吸だって、やめてもいいと思っていた。
生きることを、投げ出していた。
そんな自分が今じゃ、バスケ部のキャプテンで。
新入部員を勧誘するために、付け焼き刃とはいえ必死に勉強して。
懐かしい人に、再会して。
「アタシ、アンタに会って変われたって思うんだ。だからもっと、マシな奴になりたいって思ってんだ。マトモに、なりたいなー、なんて」
は健やかに寝息を立てる流川に、聞こえないことを承知で語り続ける。
「だからさ、そんなに怒んないでよ。そんなにカリカリされても、アタシどうしていいか分かんないよ」
それは、の本心だった。
流川は一体自分の何が気に喰わないのか、時々よく怒る。
最近は、その頻度が多いように感じる。今日だってそうだ。
それが、実は、にはプレッシャーだった。
流川は、すやすや眠っている。
「もー、起きないんだったらアンタの部屋使うからねー。おやすみ流川」
パチリ、とは部屋の電気を消した。
(のニオイがする……)
カーテンから溢れる朝の日差しがまぶたにかかり、流川楓は眩しさから目を開けた。
(ここはどこだ、オレの部屋じゃねえ)
起きた瞬間気づいたのはそのことだった。
ベッドも、サイズは自分のと同じだが、妙な違和感がある。
掛けられているタオルケットも、なにか違う。
柔軟剤の香りとは違う、何か、別の匂いが。
布団やベッドからだけじゃない、何か、部屋全体から、自分の、男の部屋とは明らかに違う雰囲気と、残り香のようなモノを感じる。
それが、妙に流川の心を騒がせた。
変な居心地の悪さ。どんな工夫をしても、オレの部屋はこうならねえ気がする。する気もない。
流川ははっと気がつく。
オンナのニオイだ、と。そして更に気がつく、のニオイだ、と。
つまり、ここはの部屋だ。
しまった、昨日ここで眠ってしまったのか。
肝心のはどこに消えたんだ?と流川の思考がそこに辿り着く前に、彼は重大なピンチの対処を迫られてしまった。
(ゲ)
妙な匂いを嗅ぎながら寝たからだ。
そもそも健康的な高校生の朝なんて、だいたいこんなもんだ。
流川は誰に言い訳するでもなく必死に頭で並び立てた。
とにかく、ここを脱出して部屋に戻らなければならない、一刻も早く。
姉に見つかったらサイアクだ。に見つかったらもっとサイアクだ。母親にバレたら死のう。
廊下に出る前にそろりと回りを確認して、素早く前屈みになりながら自室に移動する。
さっさとベッドに潜り込んでコレの処理をしよう。
ティッシュケースごとベッドに持ち込む。
この部屋が一番落ち着く。オレだけのニオイで満たされてる。いい匂いとは思わない。どこまでいっても男臭えとしか思わない。だが、オレだけの空間だ。安心できる。流川はそう思ったのに。
(!!??)
なぜ、よりによって自分のベッドに。
オマエが寝ているんだ、。
流川がベッドの妙な膨らみに気が付きガバッと布団を剥ぎ取れば、そこには居候のがすやすやと寝息を立てて寝ていた。
しかしもうなりふり構っていられない。
流川はをイモムシのようにタオルケットに包み、そのままゴロッと廊下に転がして追い出した。
「イッテ!何すんだよもー!あれ?朝?え?何?何があったの!?るかわー!開けろー!説明しろー!」
朝っぱらから理不尽な行為を受けたは扉を叩いて抗議する。
「ウルセー。開けんな部屋にもどれどあほう」
流川も扉を開けられまいと押し返す。
は流川の理不尽さに憤慨しているかもしれないが。
流川だって、男の体をこんなややこしく作った神様の理不尽さに憤慨したい。
しょうがなかった、いつもの事だった。
それがたまたま、今回だけ。
妙にのことを意識しながら、勃ってしまった。
だから動揺してしまったんだ。
は「マジで絶交だかんな!」と怒りながらどうにか部屋を後にしてくれた。
流川は念のため扉の前に本棚を移動させた。
部屋に鍵がかかるようにしてくれと、父親に今度相談すべきかもしれない。
ベッドに移動する。
ただの性欲の処理だ。
流川はいつもそれに何の感慨も抱かない。
なのに、
(の、ニオイだ……)
ベッドには、一晩そこで眠っていたの残り香が漂っており、それが流川の煩悩を加速させる。
(なんでよりによってアイツの顔が出てくるんだ、どあほう!)
1回抜いても、今日に限ってはまだ収まらない。
いつもだったらこうなったら、(おおー)とひとりで何故か感心するのだが、今日は妙に焦る。
「……うっ……ふぅ……」
素早くティッシュで吐き出された欲望を拭う。
よし、大分落ち着いた。
こうして朝からこんなパニック状態で過ごした流川楓は、残念ながら。
前日にに言いたかった文句と怒りを、すっかり落ち着かせてしまったのであった。