朝倉光里が正式に入部してから初めての部活が終わった。
は「念のため……」と前置きしてから、黛が更衣室からいなくなったのを確認した後、朝倉に尋ねた。

「アサヒはさ、あれ……何に見える?」

藤崎も興味深げに聞いている。
「あれ」とはもちろん、更衣室にの壁にある人型のシミのことである。

「え?何もないように見えます……けど?」

朝倉は真剣な顔で質問するを不思議そうな顔で見た。
だが、はその回答を聞いてほっと胸を撫で下ろした。

「あー、そっかー。よかったー。アサヒまであのシミが『人に見えるー』とか言い出したらアタシどうしようかと思ったもん」

藤崎も力強くうんうん、と頷いた。
それを見て朝倉、「え?」と更に首を傾げる。

「『あのシミ』って……なんのことですか?」
「え」
「えっ」

と藤崎はカエルが潰れたような声を上げた。

「え?え?なんもないですよね?あっ!?これ脅かしてるとかそういうアレですか!?やめてくださいよー!私怖いの苦手なんですからー!」

朝倉は顔の前でぶんぶんと手を振って拒否のポーズを取った。
だが怖いのが苦手なのはも藤崎も一緒だ。
まさかあの壁のシミ自体が「見える人」、「見えない人」に分かれてるとは思わなかった。
は一度彩子にもこの件を相談したのだが、「ファブリーズでも掛けておけばなんとかなるでしょう」と言われてしまった。
彼女は本当にさっぱりとした性格なので、「何もしてこないのなら追い払う必要はない」と本気で思っているらしかった。

「サキチィ……。どうしよう……やっぱお祓いとかしたほうが良いのかな……」
「僕、夏休み青森に帰省するから恐山でお守り買ってくるよ……」

2人はガタガタ震えながら更衣室を後にした。



66.ディスコミュニケーション




 夏の日の入りは遅い。
部活の後自主練をしたというのに、まだまだ夕日が眩しかった。
は大きな流川楓の背中を日除けにしながら自転車の後部座席に乗っていた。

「おい」
「ん?」
「寄ってくぞ」

途中、流川が突然そんなことを言い出した。
どこに寄って行くというのだろうか。
いつも真っ直ぐ行く分かれ道を右に曲がる。
はよくわからないままに自転車を走らせる流川を見つめていた。



 連れて行かれた先は、何の事はない。いつも朝に使うバスケットコートだった。
日が暮れるまでまだ時間がある。
練習がもっとしたかったのだろうか、感心なことである。
はそう思って自転車を降りて、流川のプレイを観察するためにベンチの近くに移動した。
だが、

「ちげえ」

と、言いながらにボールを投げる流川。
慌てて受け止めると、が文句を言う前に流川は言った。

「オレと、テメーでやるんだ」

え?なんで?



 大変なことになってしまった。
兄は、無神経な方だと思う。
自分が流川のことが好きだと知ってるくせに、余計なお節介を焼くことがないのはいいことだとして、あまりにも気を遣わなすぎる。
赤木晴子はため息をつきながら、そんなに散らかっていないはずの部屋の片付けを始めた。

(ど、どうしよう……勉強合宿だなんて……!)

しかも、会場がウチだなんて。
しかもしかも、参加者に流川くんがいるなんて……!!
自分の家に流川が来る、ということを想像しただけで顔を真赤にする晴子。
他にもバスケ部のレギュラーと木暮と彩子が来るらしい。
勉強は苦手な方ではないが、ちゃんと教えられるだろうか。
夜食とかも作ってあげたほうが良いだろうか。
色々な考えを巡らせながらも掃除をする手を休めない晴子。
ふと、引き出しの中から中学の時に使っていた小物入れが見つかった。
わあ、懐かしい、と思いながら晴子はそれを手に取る。
今見ると子供っぽいデザインだが、きらびやかで当時の晴子のお気に入りだった。
なにか大切な物をしまっていたような気がするが、今考えるとそんな大したものを入れてなかったような気もする。
フタをパカっと開けて確認すると、多くは友人たち撮った写真だったり、貰った誕生日プレゼントだったりした。
その中に、

(あら、何かしら、これ)

1つ、キーホルダーが付いた見慣れない鍵が入っていた。



 冷静に考えてみてほしい。
流川は男子では女子だ。
バスケで、ましてや1対1で、敵うはずがない。
流川のダンクを止めに行こうとした結果ふっ飛ばされ、何度目かの敗北の末尻餅をついたまま立ち上がらないに、流川は言った。

「おい、立て」
「ちょ、ちょっと……待ってよ……。一旦、休ませて……」

最近の流川のバスケに対する気合は異常だ。
それを相手に攻めるのだって大変なのに、さっきからは防戦一方でヘロヘロだ。
練習したいなら三井センパイとやってよ、アタシじゃ話になんないでしょ。
はそう抗議しようとしたが、流川に腕を引っ張られ無理やり立ち上がらせられる。

「もう一度、いくぞ」

何でこんなんなっちゃってんだが……。
妙にエキサイトしている流川に言われるがままに、は再び位置についた。



 晴子はその見慣れぬ鍵を手に取りまじまじと見つめる。
キーホルダーはたぬきのキャラクターだ。
どこか間抜けっぽくて愛嬌のあるそのキャラクターは、一時期女子バスケ部でブームになったことがある。

(自転車の鍵……じゃないわよねぇ?)

だいたい、自転車の鍵をなくしたら晴子はもっと前に気づいて大騒ぎをしているだろう。
そもそも、その鍵は自転車の鍵には見えない。
サイズ的に……普通の、そう、家の鍵のようだ。
だが、もちろん赤木家の合鍵などではない。
でも、晴子には流石に家の鍵を寄越してくるような知り合いはいない。
なんでこんなものが?と晴子はますます謎に思う。
この小物入れに入ってるからには、少なくとも当時の晴子はこの鍵を「大切な物」と認識していたのだろう。

(一体何の鍵かしら……)

晴子はとりあえずその鍵を元の位置に戻した。



「はあっ……ハァ、あっ……!」

疲労から足がもつれる
その隙を見逃す流川ではない。
流川のドライブはを一瞬で抜き去りまたしてもシュートを決めるに至った。
そしてすぐさまこちらを睨みつける流川。
だが、は肩で息をしてへたり込んでいて、流川をもう見てはいなかった。

「なんなんだ、テメーは」

は、「それはっ、こっちの……、セリフだ……。……ばかっ」とぜぇぜぇ言いながらも反論した。
ボールを拾いこちらにずんずん近づいてくる流川。
は「もう勘弁」と思っていた。
だいぶ日も暮れたし、疲れた。
もう、やる意味無いじゃん、とは唇を尖らせた。
どうしたんだ今日の流川は、いつにも増しておかしい。
なんというか、怒りのようなモノを感じる。
だが、にはそれが何故かわからなかった。

「おい」

の目の前に立ち、見下ろしながら流川は声をかけてきた。

「悔しくねーのか。こんな一方的にやられて」
「えっ?」

苛立たしげにそう言われて、はマヌケな声を上げてしまった。
いきなり何を言い出すんだこいつは。
驚いて顔を上げる
流川の目は怒りに燃えていた。

(悔しいわけ、ないじゃん……)

は思った。
接戦とか、いい勝負とかならともかく、流川に一方的にやられたって悔しい訳がなかった。

(勝敗なんか最初から見えてるじゃん。だって、男と女だよ?)

には、流川の言ってることが意味不明だった。
そして、流川のことを『意味不明』と感じるのは、何も今日に始まったことではなかった。
そう、には……、はっきり言ってしまうと。
には、流川のバスケに賭ける情熱がどれほどのものなのか理解できないのだ。
にはわからない。
なぜ流川がそんなにバスケで勝ちたいのか。
なぜ流川がそんなにバスケに情熱を燃やすのか。
だが、これを言ってしまうと、自分の居場所がなくなってしまうことをは本能的に察知していた。
だから、いままで一言も言わなかった。
流川と自分のすれ違いを、気づかないふりをしていた。
だけど、もう限界なのかもしれない。
しばらくを睨みつけたあと、流川は何も言わないにしびれを切らして唇を開いた。

「……もういい、お前……」

には、流川がわからない。



「あら、遅かったわね。ちゃんは?」
「知らん」

家に着いて、食卓で夕飯の支度をしている母親にそう言われた流川は、無愛想に答えた。
実際、知ったこっちゃないんだ、あのどあほう女のことは。
あの後、は流川の自転車に乗らなかった。
「おい」とだけ声を掛けたが、は黙々とシュート練を続けるだけだった。
暗くなったら帰ってくるだろう。
流川はそう思ってひとりで自転車を走らせた。

(知るか。あんな女)

つまんねー女。何なんだあいつ。
流川はシャワーを浴びて部屋に戻った後ベッドに倒れこんでバスケ雑誌を読みながら思った。
今日に勝負を仕掛けたのは他でもない。
の本気を引き出したかっただけだ。
安西は、「は負ける必要がある」と話した。
だから、実践してやったというのに。
勝負をしている間、流川はにに本気を出せと要求し続けた。
一昨日、負けても負けても流川に挑みかかってきた桜木花道のように。
昨日、勝てない相手とわかっていながらに挑戦してきた朝倉光里のように。
そして、先週の日曜日。どんな屈辱を受けても仙道に喰らいつき続けた自分のように。
もちろん、言葉ではない。
言葉は苦手だった。
だから、バスケのプレイにそんな思いを込めて戦い続けたつもりだった。
しかし……。

『悔しくねーのか。こんな一方的にやられて』

流川にそう尋ねられたは、「理解できない」という顔をした。
のそういう態度は、今日に始まったことじゃない。
女子の1回戦の敗北の頃からずっとそうだった。
初めは、そんなの態度を「自分たちのバスケが終わってしまって、強いやつとかにあまり関心がなくなってしまったんだろう」くらいに思っていた。
自分が戦えない以上、今回の大会にはもう興味が薄れてしまったんだろう、と。
だから、流川は流川なりにそんなをフォローしてきたつもりだった。
それはもちろん、言葉ではない。
言葉は苦手だ。
流川が言ったのは、一言だけ。
「オレを見てろ」。
流川は今回のIH予選の間、一瞬足りとも手を抜いたことはない。
相手が誰だろうと、自分の力のすべてをボールにぶつけてきた。
そんな自分を見ていれば、にもなんか伝わってるだろう、と思っていた。
「アタシも早く試合したいな」とか、「次はアイツを倒して1位になる」とか、そんなこと言い出すようになるんじゃねーか、と思っていた。
しかし……、アイツはいつまでたっても……。

「楓ー、ご飯よー」

母親の声が響く。
最近、いつもの「るかわー。ご飯だよー」という若干ふざけた声で呼ばれていたから新鮮だった。
階段を降りて食卓に向かうと、そこにの姿はなかった。

は?」
「いや、それこっちが聞きたいんだけど」

姉がすかさず突っ込んでくる。
嫌な予感がする。
あいつ、まさかまだあのコートにいるんじゃねーか。

「探してくる」
「え、場所わかるの?」

母親の心配そうな声にも振り向かず、流川はすっかり日が暮れた道を自転車で走った。



(なんであいつはああなっちまうんだ)

流川の予想通り、はまだコートにいた。
もう辺りは大分暗いというのに、相変わらずシュート練習をしていた。
それは、まるで、初めてとコートで出会ったあの日のように。
あの日と一緒で、はずっと、誰かを待っているような、迷子のような、そんな泣きそうな顔でシュート練習をしていた。

「おい」

なんで、そんな顔すんだ。
なんで、お前はそうなんだ。
なんですぐそうなるんだ。結局何も変わってないのか。4月から、何も。
なんで。オレが拾ってやっても、お前は何も変わらないのか。
流川の頭をいろんな考えがめぐる。
この言葉をすべてにぶつけてやりたいと思う。
そんなことができたら、だいぶ溜飲が下がるだろうと思う。
でも、そんなことをしたら、を更に追い詰めることになるだろう。

(ん?)

流川はそこまで考えて、自分の思考に引っかかりを覚えた。

(『追い詰める』?オレが?を?)

そんなことをした覚えがない。
でも、そうだ。

『……もういい、お前……』

さっき、そう言った時、は。
追い詰められて、居場所をなくした。
そんな表情を浮かべていた。
失言だった、と言ってから気づいたのだ。

「流川……」

がボールを抱えたままこちらを見てくる。
流川は、そんなを見て、(結局、何も伝わっちゃいなかったんだ)と確信した。
と自分の距離は数メートルも離れてはいない。
だが、流川にはものすごく大きな隔たりがあるように感じた。
こちらを伺うように不安そうにしている
その態度が、妙に流川の苛立ちを募らせる。
の、その空虚な目は。
流川の心に、さざ波を立てる。
認める、しか、ないんだろう。
。こいつには。
およそ、自分が持っているような「バスケに対する情熱」は、一切ない、と。
流川はずっと、それに気づいていた。
同時に、勘違いであってくれ、と思っていた。
流川はの手を掴む。

(同じじゃねーか。オレとコイツの手は)

バスケに費やした時間も、練習してきた量も、その結果ボロボロになった手のひらも。
見ろ。こんなに同じじゃないか。
流川は誰に訴えるでもなく、でも世界中にそれを言って回ってるような気分で思った。
でも何かが違うんだ。何かが違う、自分とでは、何かが。
流川は、その「何か」が「情熱」であることを、どうしても認めたくなかった。
だが……。

「帰るぞ」
「……どこに?」
「決まってんだろ。……オレんちだ」

はいつも、試合を見ている時もやってる時も、誰がどこでどんなプレイを見せようと、何も感じていない。
何も思わない。
試合に対する分析や個人的な読みはあるだろうが、それ以外は何もない。
なぜだ。流川にはわからない。
流川には、をどうしていいかわからない。
完全に持て余してしまっている。
流川は自転車に跨がり、「後ろに乗れ」と促した。
は後ろにおとなしく乗るが、背中に抱きついてくる力はいつもより弱く感じられた。

(くそ、オレじゃダメなんだ。こいつを目覚めさせるのは)

流川は歯痒く思った。
にとって、バスケとはなんなのだろうと思った。
どうして、こいつはずっとひとりで練習して、家に帰らなくなったんだろう、と。
帰り道、2人はずっと、無言だった。
家に入る前、自転車に鍵をかけながら流川は二言だけ言った。

「あんまりメーワクかけんな。ちゃんと帰って来い」

流川が『帰るぞ』と言った時、は『……どこに?』と聞き返した。
それが、妙に気になっていた。
だが、流川の言葉はやっぱり足らない。
本当は、『お前の家は、ここなんだ』。そう言ってあげたかったのに。
どこか孤独なに、帰る家を作ってあげたかったのかもしれない。
それを知ってか知らずか。
は、「……うん」とだけ返事した。