ボールはその人物の足元に転がり、その人物はボールを拾い上げた。
メガネを掛けた、どこか神秘的なオーラを纏う少女だった。
は、その少女と目があって、ひと目でわかった。
「あ、あなたも……なの?」
「……はい」
それが、と立花天音の出会いだった。
68.の運命の人
木曜日。
「じゃ、キャプテンの家行くから……」
「ん」
妙な感じである。
先週の月曜日に赤木が直談判した甲斐あって、明日男子たちは追試だ。
そのため、流川楓含む追試メンバーと木暮と彩子は、今日はキャプテン赤木の家で勉強合宿である。
部活が終わり、今日は自主練をせず切り上げたスタメン男子たち。
流川は自転車の鍵をに預けて赤木の家に向かうメンバーと合流した。
安西センセーもいねーし今日はとっとと帰るか。と、も自主練を早めに切り上げて帰路についた。
の、だが。
が自転車でやって来たのは、結局、いつも流川と朝練で使っているコートだった。
どうしてここに来たのかと聞かれれば、いつもより練習が少なかった分、体力が有り余っているからに他ならない。
なんとなく、すぐ帰る気になれなかったのだ。
少し練習していくか、こんなんだったら学校にいればよかった。とか思いながら、は自分のバッグからボールを取り出した。
練習をしながら、は先週の水曜日のことを思い出していた。
どうして、なんで、流川はあんなに怒っていたのだろう、と。
流川は一体何がしたかったのか。
自分に何をさせたかったのか。
流川は言葉では何も言わないから、にはよくわからない。
こうしたすれ違いは、徐々に、徐々に2人の距離を離していった。
ドリブルの練習をしながらは思考を続ける。
(今日……赤木さんちいるのかー)
実は、も誘われていたのだ。
赤木晴子に、今日の勉強合宿にこないか、と。
『ちゃん、お勉強得意だったわよね。一緒に先生役しない?1年生は桜木くんと流川くんが来るから……』
晴子が言うには、やっぱり一番テスト範囲を理解しているのは同じ学年同士だから、三井には木暮と赤木が、宮城には彩子が、そして桜木と流川には自分たち二人が付けばちょうどいいのではないかと言った。
『ベンキョートクイとか、昔の話だよ』
はそれだけ言って、また逃げたのだ。
(タイミングがわんだよ、タイミングがー!)
はまたしても晴子に八つ当たりしてしまった自分を責めた。
せっかく向こうがあれだけこちらに気を使ってくれてるというのに、現在流川と喧嘩中の身では、自分が参加したところで合宿の雰囲気を悪くするだけだ。
だいたい、勉強が得意だったというのも実際昔の話だ。
今のは成績だけ見ればバカそのものであり、成績以外の色んな要素を鑑みてもバカそのものである。
そうじゃない、信じてるわちゃん。なんて言ってくれるのは世の中赤木晴子くらいなもんである。
そんな晴子と何故うまくいかないのかというと……。やっぱりタイミングである。
2年前も、タイミングが悪かった。
中学の時、噂で『がバスケ部をやめたのは自分のせいだと晴子が思っている』と小耳に挟んだことがある。
絶対違うのに。
絶対違うんだけど、は罪悪感から何も言えず、ただでさえ登校を少なくしていた学校の出席状況を更に悪くした。
自分のことは忘れて欲しかった。
のに、何の因果か赤木晴子と同じ高校に進学してしまった。
もっとアタマイイとこ行けよー!とちょっと思ったが、まさか湘北のバスケ部に兄がいるとはしらなかった。
多分、彼女も3年時には兄と同じく進学コースをに入るつもりで湘北に入ったのだろう。
(つーか似てねーんだよあいつら!似てたら真っ先にケーカイしてったつーの!もっと似せとけ!)
は部活見学の日、突然現れた赤木晴子を思い出しながら、理不尽な怒りでボールを強く叩いた。
晴子の兄・赤木剛憲は何度か中学の頃試合を見に来ていたようだが、には覚えがなかった。
そう言えば、まだバスケ部いた頃、「今日晴子ちゃんのお兄ちゃん来てたねー」とチームメイトに言われたことがある。
「え?気が付かなかった。どの人?」とが聞くと、「えー!!あんなおっきい人すぐわかるじゃーん!」と驚かれたのだ。
そんなこと言われても……と思ったが、現にあの頃のは必死で、周りのことなんて気にする余裕がなかった。
(そーいや……家誘われたの、2回目か……)
晴子が小6の時に、赤木家の父親は念願のマイホームを購入したらしい。
それが現在の家なのだが、それのおかげで一人部屋がもらえたのだと晴子は語った。
また、その為学区が変わり、兄はバスケ部のこともあったので北村中に越境通学をし続け、自分は四中に入学をしたのだということも語っていた気がする。
は、ふぅ、と溜息をついた。
嫌なことを思い出した。
は、晴子の家に行けなかったのだ。
友達の家に誘われるという経験がなかったので、はとても喜んだのだ。
喜んだのだが……。
(あっ)
考え事をしながらウォーキングドリブルに移ったせいだろう。
普段はしないような、ボールを蹴ってしまうという初歩的なミスを犯してしまった。
うわ、ハズい。
誰に見られているわけでもなくそう思い、はコロコロと転がるボールを追いかける。
誰に見られているわけでもなく、と思ったが、を見ていた人間が1人いた。
ボールはその人物の足元に転がり、その人物はボールを拾い上げた。
メガネを掛けた、どこか神秘的なオーラを纏う少女だった。
「はい、どうぞ」
「あ、ドーモ……」
そのボールを渡してきた人物を見た後、ボールを渡してくる手を見て、はその少女が何者であるかを悟った。
「あ、あなたも……なの?」
「……はい」
彼女は優しく微笑む。
と同じ手を持つ少女。
彼女もバスケをやるんだろう。
それも、相当な実力者のはずだ。
「アタシ、さ。いつもは他にいるんだけど、今日は1人でさ。あの、よかったら」
は、どこか慌てたように早口で捲し立てた。
それもそのはずだろう。だって……。
「おい、何をしている。行くぞ」
彼女に呼びかける男の声がして、と少女はそちらの方を振り向く。
車椅子に乗った青年が、そこにはいた。
その青年は車椅子に乗ってはいるが、随分体格が良い。
何かのスポーツを行っていて、ケガでもしたのだろうかとは思った。
「はい、兄さん」
少女は青年に返事をし、にぺこりと会釈して青年の方に向かう。
「ま、待って。ここ、また来る?名前を……」
は妙に慌てた様子でその少女を引き止めるように言った。
だが、彼女は柔らかく微笑み、
「バスケをしてたら、また、会えますよ」
とだけ言い残し、青年の車椅子を押して去っていった。
は、夏の暑さのせいではなく、他の理由で熱に浮かされている自分がいることに気づいていた。
だって、は彼女を見た瞬間、ひと目で好きになってしまったのだ。
(あの子……、どこの学校だろう……)
はぽーっとなりながらボールを抱える。
それが、と立花天音の出会いだった。
翌日。
赤木家の皆様にお礼を言ってから学校に向かうバスケ部男子と彩子と晴子。
流川楓は大あくびをしながらとりあえず必死に覚えた数学の公式を反芻した。
勝負は今日の放課後である。
教室につくと、はいなかった。
自分がいないことをいいことに、のんびり登校するつもりだろう。
相変わらずいい加減なやつである。
流川はそう思ってあまり気にせず、席に座って昨日綾子と晴子がまとめてくれた要点ノートを開く。
頭に入らなかった。
流川はすぐに寝た。
担任が入ってきて、HRがいつの間にか始まりいつの間にか終わっていた。
「流川ー!」
男の声で名前を呼ばれて、流川は頑張って意識を覚醒させる。
「……だれだテメー……」
「はぁ!?同じクラスだろーが!しっかりしろよ!」
ああ、クラスで割ととよく喋ってる……やっぱり、誰だテメー。
名前が出てこなかった。
だがその男は気分を害しながらも、流川に言った。
「ちゃん今日どーしたんだよ。風邪?」
「?」
聞かれている意味が一瞬よくわからず、流川は隣の席を見やる。
いつもみたいにふざけた金髪の女は座っておらず、カバンのかかっていない無人の席だけがあった。
「……、いねーのか」
「だからHRんとき言ってたじゃねーか。ちゃん休みだって!流川なら知ってんのかと思ったのによぉ」
それだけ言って、男は自分の席に戻っていった。
が、休みだ?
流川は久しぶりに空席になった隣の席をギロリと睨みつけた。
一瞬、いつもの様にヘラヘラ笑っているが見えた気がした。
どうにか赤点を免れた男子たちはほっと一息をつきながらも部活の練習をこなした。
流川が練習をしていると、三井がおい、と声をかけてきた。
「、休みなのか?」
「……らしいっす」
そーかよ、と言って三井は練習に戻った。
最近、あの人はよくと走り込みを行っている。
別に、それがなんだ、というわけでもないのだが。
がいない、ということは、今日自転車に載せようと思っていた荷物も1人で持ち帰らなければならないということだ。
がいなくて困ることなんて、その程度のことだ。
流川は、先週からちょっと気まずい居候のことを思い出しながら、そう結んだ。
「ただいま」
「おかえりなさい。追試どうだった?」
「なんとか。……アイツは?」
「部屋で寝てるわよ。熱があったから休ませたのよ」
「……そうか」
家に帰ってきた流川は、母親にのことを尋ねた。
どうやら体調を崩して休んだというのは本当らしい。
アイツはいつも、オレが目を離した隙に問題を起こす。
オレが見てなければならん、と流川は無意識に思った。
「あ、楓おかえ。追試どうだったー?」
「……まあまあ」
今日仕事が休みだったらしい姉が、母親と全く同じことを尋ねてきた。
これでダメだったら実際シャレにならなかった。流川はちょっと冷や汗をかいた。
「あーそうそう。ちゃんねー。あれ、ヤバイわよ」
姉が唐突に不穏なことを言う。
「なにが」
「うん、あれは相当やばいわ。かなり患ってる」
「こら、お姉ちゃん」
姉はなにかしたり顔でうんうんと1人で納得し頷いている。
母親は窘めるように姉を叱った。
「、なんかビョーキなのか」
流川は眉をひそめながら言った。
昨日見た限りではそんな急激に悪化する病を持ってそうには見えなかったが。
「風邪のことじゃなくて……。いや、風邪かも。ちゃんね……。あれは」
恋の病。
よ、と姉が言い切り終わる前に、流川は超スピードで階段を駆け上がっていた。
おい、テメーどういうことだ。
風邪をひくならまだしも、なんだ恋の病って。
別に恋すんなとは言わねーが。
おい。どうしてオレがいない時ばっかそういう意味のわからん展開になる。
何なんだお前。
どういうつもりだ。
そもそも。
恋ってなんだ。
「!!」
流川はよくわからない怒りのままに無遠慮に扉を開ける。
はベッドにはいたが、体を起き上がらせていた。
「あ、るかわおかえ。追試どーだった?」
家に帰って3回目のおなじ質問に答える気にはならなかった。
「おい、なんか、患ってるって聞いたぞ」
「患う?大げさだなー。ちょっと風邪引いただけだもん。昨日なんかアチーな、って思ってたら熱あったんだよねー」
でも寝たらダイジョーブんなったよ。明日はガッコも部活も行くね。とは言うが、流川の耳には入ってこない。
「姉貴が、テメーがなんか患ってるっつってたぞ」
「え?やだー。そっち?もー、そーゆー話じゃないってオネーサンに言ったのになぁ」
はちょっと照れくさそうに、でもどこか楽しそうに言った。
どうやら、姉の話はウソではないらしい。
なんだいつの間に。
昨日か、昨日なのか。
「うん、まあね……」
どこか遠くを見るに、流川は言いようのない悔しさに襲われる。
クソ、こんな事になるなら昨日を送ってからキャプテンの家に行きゃあよかった。
流川はなぜ自分がそう思うのかは分からないが、時よ戻れ、と思ってしまった。
「どんなやつだ」
「うーん、まだ、全然分かんないや……。バスケしてる人だとは思うんだけど」
「……バスケだったらオレだってするぞ」
「ん?そだね」
はやっぱりどこか遠くを見るような目で少し笑った。
「……名前は?どこのどいつだ」
「それも全然分かんないんだよ。聞けなかったし」
それなのに好きってどういうことだ。
一目惚れとか言う奴か。ふざけた真似しやがって。
流川はを睨みつけるが、はそんな流川が目に入ってないようだった。
夢見がちの少女のような顔で、「あ、でも、」と言い、
「バスケしてたら、またどっかで会える……的なこと言われた」
と続けた。
なんだそれは。
それを聞いてオレはどうすればいいんだ。
流川は聞いたのはこっちなのに、何故か異様に後悔している自分がいることに気がついた。
「……年は。見た目は」
「えー?だから分かんないって。同じくらいだと思ったんだけどなー。メガネかけてたよ」
「……メガネ」
流川は、理由は分からないが「明日にでも世界中の眼鏡を叩き割ってやらねばならん」と思った。
まずは手始めにクラスメイトの石井からだ。
あと、クラスでは級長も掛けていたか。
部活では木暮だ。先輩とはいえ叩き割らなければならない。
「でね、髪は後ろでまとめてて……シニヨン可愛かったなぁ」
「……シニヨン」
シニヨンってなんだ。
よくわからんがそれも破壊してまわればいいのか。
そうすれば、は二度とそいつに惚れることはなくなる……。
「ん?『カワイイ』?」
流川は、の発言に引っかかりを覚える。
復唱すると、は頷いた。
「うん。髪型のこと、こんな感じ」
は下ろした髪を手櫛で適当にまとめ、いつもの様にポニーテールを片手で作ってから、もう片方の手で先端をくるくるっとした。
男がそんな髪型すんのか。
流川は若干引く。
「でも、私服だったしどこ校かわかんなかったよ?……いつか、試合することあるかもね」
「……そうか」
今回の予選では残念ながら戦うことはなかったようだが、流川はそいつを見つけ次第全力でぶちのめすことを誓った。
なぜかよくわからないが、そうしなければならないと思ったのである。
「ポジションは?」
「だから分かんないって。アタシとそんなに背変わんなかったし……。どこでもやれんじゃん?」
「テメーぐれーならどこでもってわけにはいかねーだろ」
は170程度しかない。
女子ではそこそこだが男子では有利な身長とはならない。
だが、ここでは重要な事を言った。
「そりゃ男子だったらね。女子だったら170くらいでもセンターやってるとこ、いくらでもあるよ」
と。
「………………」
「…………なんで急に黙るの?」
「…………オンナ?」
「そうだよ。なのにオネーサン『ちゃん恋する乙女だ~』とかからかうんだもん。参っちゃうよ」
は照れたように顔をポリポリと掻いた。
だが流川の耳にはもう届いてはいない。
なんだ。女か。なら安心である。
いや、安心どころか、朗報だ。
ようやく、ようやくこいつにも。
(バスケで、戦いたい相手ができたってことか)
流川からは先程の焦燥感は嘘のように消え、またいつもの眼光でを睨みつける。
きっと、はその女から何か感じ取ったのだろう。
それで、その女に熱中をしているのだ。
流川はそう思って口元で弧を描く。
また見れる。コイツのバスケが。
流川はなんだか満たされた気分になり、「起こして悪かった。寝とけ」と言って部屋を去った。
残されたは、(何だったんだアイツ……)とやっぱり流川を訝しんだ。
こうして、2人のすれ違いは今日も続く。
が立花天音に感じたものの意味とは。
2人はまだ、わかっていない。