はその昔、「フリースローラインから必ず入るようになるまで家に帰ってくるな」と母親に言われたことがある。
70.そのボールが見せる景色
シュート合宿、3日目。
「よしっ!100本目!」
「お、いいねー。じゃあ休憩入ってよーし」
「オッス!先生!」
そう言って桜木は水道に走って向かった。
元気な限りだ。
映像記録係の高宮は一度カメラを止め、テープの残量を確認している。
そして、今日も手伝いに来てくれた赤木晴子は、に「すごいわ、桜木くん!昨日より確実に精度が上がってる!」と、興奮気味にシュート記録表を見せてくれた。
「あ、ホントだ。まだまだバツだらけだけど、初日のと比べるとちょっと入るようになったね」
それだけ言って、は少し離れた所においていた自分のドリンクを取りに行った。
そんな2人の様子を、不思議そうな顔で見ている水戸洋平。
ドリンクを拾う。
が飲みながら女子の方を見ると、ダッシュ&ストップ練習中であり、黛が「オイ藤崎!テメー下半身よえーんだからせめてしっかり止まれ!」と注意していた。
そんな感じで午前中はつつがなく終わり、桜木はに「アリガトーゴザイマシタ!」と丁寧にお辞儀をした。
が「それ、安西センセにもやりなよ」と言ったら、桜木が「ぬ?なぜオヤジに……?」と心底不思議そうに言ったのが面白かった。
どうも彼の中の基準がわからない。
女性はとにかく敬い尊重するものだと認識しているらしい。
午前中にすっかり空になったドリンクボトルを補充するためにも、はお弁当を食べる前に水道に向かった。
「あ、ちゃん。お疲れ様」
「赤木さん……。……オツカレ」
水道には、先客がいた。
ここでいきなりどこかに行くのもわざとらしいし、事実はのどが渇いていたので蛇口を捻って水を飲み始めた。
「……なんだか、懐かしいわね」
「?」
は水を飲みながら、視線だけ晴子に向ける。
「ちゃんと、こうやって部活するの」
は蛇口を捻って水の流れを止めた。
水の音がしない水飲み場は、やけに静かだな、と思った。
「……そう、だね」
と晴子は同じ中学のチームメイトだった。
色々なことを共に経験した。
汗を流し、口の中が血の味がするまで走り回り、腕が上がらなくなるまでバスケの練習をした。
そんな時間を共に過ごした相手だった。
お互いの青春の一部に、2人はいた。
「……それじゃ」
「……うん、午後も、よろしくね」
「うん。……午後は安西センセ来ると思うから。桜木のこと、よろしく」
は更衣室に向かい、晴子は食堂に向かった。
そんな2人を、こっそり見ていたものがいた。
「ふー。良かった。オレてっきりちゃんとハルコちゃんが流川巡ってケンカすんのかと思った」
「……しねーだろ」
水戸洋平と、黛繭華である。
水戸は軽口を叩き、黛は壁にもたれかかり呆れたように溜息をついた。
「まーな、」と水戸は黛に手のひらを見せつけるように腕を大げさに開いた。
「でも、ずっと謎なんだよな。ちゃん、誰にだって人当たりいいのにハルコちゃんのことだけはやたら避けるし。ハルコちゃんだって、ちゃんには妙によそよそしいし。マユカちゃん、なんでかわかる?」
「知るわけねーだろ」
黛は不機嫌そうに髪を掻き上げた。
いっそ流川の取り合いだとか、問題がはっきりすればいい。
それなら、水戸は聡いのでいくらでも動きようがあるし、あるいは動かない、という選択ができる。
黛だって同じだ。
だが、あの2人は何か、お互いを傷つけないように必死というか、それ故にお互いを傷つけてしまっているような悲壮感がある。
その原因さえわかれば、二人の仲を取り持つか、距離を置くように立ち回るか、手が打てるのだが。
「不思議なんだよね。さ、合宿の初日に私に言ってきたんだよ。『赤木さん、バスケしてる時以外はものすごい鈍いから。信じられないところで転んだりするから、そん時はよろしく』って。だから、嫌いってことはねーと思うんだけど……」
黛が言うと、水戸は、「あ、オレも」と続けた。
「ハルコちゃんからさ、『ちゃん、意外と無理すること多いから、みんなで手伝ってあげようね』って言われてたんだ。花道の合宿始まった頃にさ」
「ふーん」
黛はつまらなそうに毛先をいじった。
赤木晴子の件に関わらず、には謎が多い。
一番詳しい事情を知っているのは間違いなく赤木晴子だろうが、彼女はこの件に関しては頑なに口を噤む。
お互いがお互いをかばい合って、身動きがとれない。そんな印象を受ける2人だった。
「……そろそろ、聞いてもいい頃かしらね……」
「え?」
「なんでもないわ」
黛はそう言って、壁にもたれかかった体を起こし、更衣室の方に去っていった。
6月の最後の日曜日に受け取った、ある男の連絡先を思い出しながら。
「桜木ー、ボールが真ん中に来すぎ。もうちょい右がいいよ」
シュート練習4日目。
は「昨日の方がボールの位置は正しかったよ?」と言いながら桜木に近づき腕の位置を変える。
「あれ、そーですか?実はですね、昨日のビデオを見直してたら、ボールは真ん中のほうがフォームがキレイかと思いまして……」
「安西センセ、最初からボールはちょい右くらいに指導してたよ。わざとなの」
どうやら、彼は彼なりに頭を使って試行錯誤をしているらしい。
だから、この2万本というシュートも苦にならないのだろう。
いや、苦にはなっているのだろうが、退屈じゃない。
彼にとっては、一本一本が別のシュートだ。
1つとして同じものはない。
昨日よりもうまく、さっきよりも上手に、彼はシュートを打とうとする。
それ故に、こういう間違いも犯すのだろう。
「ボールが真ん中に来すぎるとね、今度は、ほら、右肘曲がっちゃうでしょ?」
「あ、ホントだ……」
は桜木からボールを取り上げ、先ほどの間違ったフォームを再現する。
「こーすると、ていっ」
は間違ったフォームで無理にシュートを入れる。
ボールは、リングに弾かれた。
「っ!」
桜木が悲壮な声を上げる。
「ね?腕の力でムリに投げることになるから、入らない」
「そ、そーですね!先生の言うとおりです!」
だから安西センセ最初から言ってたって。というのツッコミは桜木には聞こえなかったようだった。
「だから、ゴールに対してもうちょい右半身が前に向くといいんだよ。で、ボールの位置は右耳の上あたりで。やってみな」
「ハイ!」
は桜木にボールを渡し、シュートを見守る。
シュッ、と投げれらたボールは、見事リングに吸い込まれていった。
「よし、いい感じ」
「ハイ、先生!!」
桜木も何か掴めたのか、嬉しそうにしている。
そんな桜木を見ていると、もなんだか嬉しくなる。
もっとうまくなって欲しい。
だからここは心を鬼にして、厳しいことを言った。
「桜木、アンタがほしいのは『キレイなフォーム』と『シュートが入るフォーム』、どっち?」
「シュ、『シュートが入るフォーム』です!!」
「そ。じゃあもう『こっちのほうがキレイ』とかの基準で考えるのはやめな。こっちは最初っから、『シュートが入るフォーム』を指導してるからさ」
「ハ、ハイ……!」
桜木は直立不動で返事をした。
これでさっきみたいな考え方でフォームを崩すことは無くなるだろう。
彼は飲み込みが早い。
出来る限り、変なノイズを排除して、最短ルートでうまくなって欲しかった。
そんなの気持ちを受け止めてくれたのか、桜木花道は再びせっせこシュート練習を始めた。
その後はの口出しもそんなにすることはなくなり、桜木軍団のヤジとアドバイスと共に、桜木を見守るだけになった。
彼は、今も一心不乱にシュートをしている。
それを見ていると、ふと、思い出す景色がある。
はその昔、「フリースローラインから必ず入るようになるまで家に帰ってくるな」と母親に言われたことがある。
今日みたいな、暑い夏だった、と思う。
リングのある公園で、ボールとともに母親に置き去りにされた。
の家からそう遠くないところにある公園だったので、帰ろうと思えば帰れないわけではなかった。
でも、は母親の言うとおり、ひたすらシュートを入れ続けた。
入るようになるまで、何度も。
夜、途中で雨が降ってきた。
人気のない公園で、雨とボールの音だけを聞きながら、はシュートを打ち続けた。
そうしなきゃ、シュートが入らなきゃ、ママに捨てられる。
はその時点で、それを理解していたからだ。
翌日、公園に母が迎えに来てくれた。
「ごめんなさい、ママ。まだ必ず入るようにはなってないの」。
は謝った。
母がを迎えに来てくれたのは、後にも先にもこの時だけだった。
「ちゃん、お疲れ様」
「あ、サキチィ。休憩?」
「うん。まゆまゆ大ハッスルだから、5分だけだけど」
気がついたら、藤崎がのそばに寄っていた。
キャプテンの仕事を任せられた黛の気合が凄まじく、練習もキツイのだと藤崎は言う。
朝倉は熱血バカなので、しごかれるほどイキイキとする。
「まあ桜木の件が片付いたら戻るよ」とは苦笑した。
藤崎は「早く戻ってきてね」と言った。
2人で桜木を見守っていると、藤崎が再び口を開いた。
「ちゃん、流川と連絡とってるの?」
「え?いや。……なんで?」
「……最近、仲悪そうだったから」
うーん、よく見てるなぁ……。
は少しぶすっとして、藤崎に愚痴る。
「ケンカっていうかさぁ、なーんかアイツ、一方的に怒ってんだもん。よくわかんないよ」
藤崎もうんうん、と頷く。
「最近の流川、なんかすごいよね。IH行きが決まって、気合が入るのはわかるけど。それだけじゃない気がする」
そうだ、アメリカに行きたい、とか言い出したのもその頃だ。
そして、その頃から、流川はなんだかに怒るようになってきた。
には流川の気持ちがよくわからないし、きっと流川だって、の気持ちなんかこれっぽっちもわかっていないだろう。
「ちゃんは、」
「ん?」
藤崎は桜木を見ながら言った。
「桜木といる時のほうが、楽しそう」
「…………サキチィ~!!」
は藤崎に思わず抱きつく。
うっう、アタシの気持ちわかってくれんのはアンタだけだよ~と言って抱きしめ、藤崎は「ぐえっ」と悲鳴を上げた。
だって、だって本当に楽しいのだ。
桜木花道にバスケを教えることは。
どんどん上手くなる桜木のことを見ていることは。
は桜木のゴール下の練習に付き合ってから、自分の中のその思いを自覚した。
は今までずっと、バスケしかしてこなかった。
だから、バスケをやめた自分が、空っぽだと思いながら生きてきた。
しかし、空っぽだと思っていたが、誰かにバスケを教えてると、『アタシにもなんかあるじゃん』と思えた。
生きてきた痕跡というか、過去というか、とにかくそういうのが自分にもあるじゃん、と思えるのだ。
そうすると、は急に自信がつく。
アタシ、生きてたんだなぁ、生きてるんだなぁと、なんと表現すべきかわからないが、生きる自信、みたいなものが漲る。
だから、楽しいのだ。人に、桜木にバスケを教えるのが。
でも、きっと。
(流川にはわかんないだろーなー、こんな気持ち)
は、シュートが外れて悔しがっている桜木の背中を見ながら、藤崎に語りかけた。
「桜木見てるとね、なんか、鼻の奥がツンとしてくる。……なんでだろーね」
今なんかまさにそうだ。
頑張っている彼を見ていると、なぜか泣きたくなる。
頑張れって、応援したくなる。
自分の思い描いたとおりに成長してくれる彼を見ているのは楽しいし、自分の想像を上回るバスケをしてくれる彼を見ていると嬉しくなるのだ。
込み上げてくる思いに耐え切れなくなって、は鼻をスピスピとすすった。
ティッシュを取り出し、チーンとかむ。
藤崎は、そんなを見て、「ちゃん、それ、母性じゃない?」と言った。
「……ボセー」
母性って、なんだろう。
聞こうと思ったら、藤崎は黛に呼ばれて練習に戻ってしまった。
なので大人しく桜木を見守っていると、はやっぱり鼻の奥がツンとした。
「それでは、また明日!」
「ん。バイバイ」
朝倉と校門のところで別れた後、はひとりで自転車を漕ぎした。
母性とはなんだろう、練習中に藤崎に言われたことを思い出しながら。
(ぼせー……どーぶつ……。……パンダ?)
昔テレビで見た、パンダの出産シーンをは思い出した。
(そしてこれは……フィアットパンダ……)
歩道を自転車で走りながら、こちらに向かってくる車に気がつく。
随分荒い運転のパンダである。
(ったく、あぶねーな)
ここらじゃあんま見ない車だな、と思って通り過ぎた車のナンバープレートを見ると、川崎ナンバーだった。
余談だが、鎌倉市は湘南ナンバーではなく横浜ナンバーの管轄である。
つまり何が言いたいのかというと、やっぱり見かけない車だな、と思ったということだ。
(パンダの赤ちゃんの名前、なんだっけ……)
ひとりで思考を脱線させながら、は自転車で道を駆け抜けた。