もっと気にしておけばよかった。
「流川くん……、ちゃんに、電話できたの……?」
この日の、赤木晴子の反応を。
もっと聞いておけばよかった。
『桜木……、ケガ、大丈夫なの?』
電話口での、の言葉を。
そうすればきっと、割と近い将来、
「ごめん、なさい……」
があんな目に合うことはなかっただろうし。
少しだけ遠い未来、
「……流、川……。なに、してんの……」
とオレが、あんな別れを経験する必要が無かったと思うから。
72.灰色の水曜日
激闘の末、優勝候補の山王工業を打ち破った湘北。
だが、その代償はあまりにも大きく、既に湘北のチームの主力であった桜木花道が大きな怪我を負ってしまった。
当然、明日の試合の出場は絶望的である。
いや、明日どころか次の大会すらもどうなるかわからない。
それくらいの大怪我をしてしまったのだった。
一応、親に連絡を入れておくか。
(あとついでに、……)
女子の方も、もう部活が終わってる時間だ。
そう思い、流川は会場内の公衆電話エリアへと向かった。
向かった先の公衆電話の5台の内4台は、なんと桜木軍団が占領していた。
向こうは流川に声をかけるが流川は適当に流した。
どうやら桜木軍団は、女子達の家に一人ひとり連絡を入れているらしかった。
いつの間にかもらっていたのか、女子部の連絡網を野間が持っている。
「やべー電話番号間違えた!オレの10円~!」と高宮が嘆いていて、流川心の中で(どあほう)と呆れた。
「今ゴザイタクではないんですか?えーと、じゃ、何時頃に帰ってくる……あ。切るなよー!」
大楠があまり慣れてなさそうな敬語口調で電話をしている。
しかし、どうやら誰かの親に、一方的に電話を切られてしまったらしい。
まあ、電話越しでもわかる知性の低そうな男からの電話だなんて、娘を持つ親にとっては不快以外の何物でもないだろう。
「……ああ、勝った。……アイツに代わってくれ」
最初に電話に出たのは母親だった。
親にはとりあえず勝ったことだけを報告し、に代わるよう頼んだ。
しばらくしてドタバタとした音が響いた後、『おっすー』との声が聞こえた。
『勝てたんだってね。オツカレサマ』
「……おー」
4日ぶりに聞くの声は、いつも通り、少し固めではっきりとしていた。
「……それで、桜木が怪我した」
『えっ……!?』
挨拶もそこそこに本題を伝えると、は声を詰まらせた。
『桜木……、ケガ、大丈夫なの?』
流川が想像していた以上に、電話口から聞こえた声は震えていた。
「わからん。今、彩子先輩と安西先生が付き添って病院に行ってる」
『そう、なん、だ……』
泣き出しそうな、絞りだすような声だった。
流川は、のそんな声を長く聞いていたくなくて、「詳しいことがわかったら、また連絡する」と言って電話を切った。
なぜか、流川は自分の心臓が痛くなるのを感じていた。
そして受話器をおいて一息ついたら、桜木軍団がこちらに注目してることに気がついた。
「…………なんだ」
その目は。
特に大楠は信じられないモノを見ているような目でこちらを見ている。
「る、流川、今、お前よぅ。ちゃんに、電話してたよな?」
「…………おー」
大楠がぎょっとした表情で尋ねてくる。
なんでそんな反応をされなくてはならないのかわからないが、とりあえず肯定する流川。
「え、……オレ、今ちゃんちに電話したら、おふくろさんが出てよ……。ちゃんいねぇって言われて……電話切られたんだけど」
(しまった!)
流川は自分のミスに気が付き目をかっぴらいた。
そうか、コイツはの家に電話していたのか。
そりゃ、今の家にはいない。なぜなら自分のところに家出してるからだ。
だが、それをコイツらに言う訳にはいかない。
どう誤魔化そうかと流川が足りないアタマで考えていると、相変わらずここにいる誰より聡い水戸洋平が、流川が困っていることを見抜き助け舟を出した。
「ははは。そりゃ大楠と流川じゃちゃんのおふくろさんだって対応変えるだろーよ」
「はあ!?何でだよ!電話だぞ?電話は顔じゃねぇ!」
納得のいかない大楠は水戸に抗議をするが、「電話でもにじみ出てんだろ、オマエのアタマの悪さが」と水戸は笑った。
流川は(助かった……)と、心の中で水戸に感謝した。
「みんな、連絡取れた?」
赤木晴子が、公衆電話コーナーにひょっこりと現れた。
どうやら、女子の連絡網を持っていたのは彼女だったらしい。
「ああ、全員連絡取れたぜ。サンキュー」と、野間は連絡網を晴子に返した。
「うん。……あの、誰かちゃんに、連絡出来たかしら……?」
赤木晴子が、少しだけ声のトーンを暗くして桜木軍団に質問をした。
まるで、「そんなことできないよね」と言いたげな口調だった。
「おー、流川が連絡してくれたぜ」
これでバッチリだ!と高宮は得意気に言った。
だが、その言葉を聞いた赤木晴子の反応は意外なものだった。
「えっ!?」
驚いた晴子が、弾かれたように流川を見つめる。
そして、
「流川くん……、ちゃんに、電話できたの……?」
と、まるでなにかを探るように尋ねた。
流川は「……ああ」とだけ答えて、その場を離れた。
もし彼女にこれ以上の件を問いつめられたら、流川は今度こそ誤魔化しきれない。
少しばかり赤木晴子の反応は引っかかったが、この場に長居をしたくなかったのだ。
そして湘北は、この翌日。
IHの舞台から姿を消すことになったのであった。
帰宅した流川を最初に出迎えたのは母だった。
広島から新幹線に乗り、家に着いたのは3時過ぎだった。
「お疲れ様。よく頑張ったわね」
「おー」
母親は暖かくそう言ってくれるが、流川は納得していない。
自分は日本一の高校生になる、そう決めたのだから。
「……アイツは?」
「ちゃん?……なんだか、具合が悪いみたいなのよ。熱はないんだけどね。一昨日から元気がなくて。昨日なんてご飯も食べないで部屋に戻っちゃって……。部活には行ってるんだけどね」
「…………そうか」
なんだそれは。
また人が見てない隙に問題抱えやがって。
流川は自分の部屋にとりあえずボストンバッグを置くと、蹴破るようにの部屋の扉を開いた。
「おい」
は、ベッドにうつ伏せになり、枕に顔を埋めて寝ていた。
息苦しくねーのか、と少し心配になる。 が、見るからに元気のなさそうなその姿の前に、そんな心配は小さなことだった。
「……るかわだ。……おかえり」
起きていたらしい。
は顔だけをこちらに向けて挨拶した。
とりあえず「おー……」とだけ返す。
は再び枕に顔を埋めた。
「……どうした」
流石に心配になり声をかける。
何がコイツをこんなに凹ませているのか。
流川が思い当たる原因といえば……。
「桜木、3ヶ月はかかる、……らしい」
その言葉に、の肩がびくっと震えた。
どうやら大当たりだったらしい。
だが、どうしてこんなに落ち込んでいるのか。
そんなに桜木と仲良かったか?と流川は疑問を抱く。
そりゃバスケ部として桜木の不在は手痛いが、スポーツに怪我はつきものだ。
怪我に泣かされる選手なんてものはいくらでもいる。
だって、それくらい分かっているはずなのに。
流川がそう言った主旨のことを告げると、はこちらも見ずに言った。
「……きっと、流川にはわかんないよ」
「……そーかよ」
のその言葉になんだか無性に腹が立って、流川は部屋を後にした。
にとって、優勝した学校名より準優勝した学校名のほうが馴染みがあって驚いた。
月曜日、安西から告げられたIHの結果報告に全員様々な思いを巡らせた。
そして、今日は。
「赤木先輩、木暮先輩。3年間お疲れ様でした!」
彩子から花束を贈呈され、部員から拍手と祝福を受ける赤木と木暮。
同じ3年でも三井はこの2人を送る側として、このささやかな送別会に参加している。
そう、三井と。
「うぅー!3年間本当にお疲れさまー!IHまで行っちゃうなんて本当にスゴイよ~!!」
赤木と木暮に抱きつき、えーんえーんと大きな声で泣いている椎名愛梨は。
受験生だというのに、彼女はわざわざ送別会に来てくれたのだ。
「うっぅ~。あーん、アサヒちゃん写真お願い~」
「は~い」
もらい泣きしながら朝倉がインスタントカメラを構える。
写真に入るべきか悩んでいる三井の背中を、は「入ればいーじゃん」と押した。
朝倉が写真をまずは一枚撮る。
「もう1枚いきますー」と言った時、黛が「あんたが撮ると何が起こるかわからない」と言って、カメラを奪って代わりに撮った。
その後、2年男子からの涙の感謝メッセージなどが告げられ、送別会はお開きになった。
そして、その日は更に。
「手書きと使い回し。どっちがマシかな」
「……手書きのほうがよくね?」
「じゃあ、手書きで。アサヒ、字だけはムダにうまいから書かせておく」
「よろしく~」
女子も男子も、部室の掃除を行った。
いなくなった部員のロッカーを整理するのはもちろんだし、増える部員のためにも掃除しておかなくてはならない。
男子の更衣室から、藤崎は先程「赤木」と書かれたプレートをもらってきたらしい。
でも、さすがに3年使ってたものを使い回すのはなあ、と思ってはそれを止めた。
(つーか、いい加減除霊しとかねーと……)
相変わらず女子更衣室に鎮座する謎のシミを見て、は溜息をついた。
彼女のことだ、これが何らかの心霊現象である、と気がついたら泣き出すかもしれない。
「ちゃん、書きましたよ~」
朝倉が、長方形の紙をひらひらさせて持ってくる。
「お、サンキュー」
はそれを受け取り、先程まで掃除していたロッカーのドアを閉めて、その紙を規定の位置にはめ込んだ。
紙には、「赤木 晴子」と書かれていた。
彼女は、明日から正式なマネージャーとして、バスケ部に入部する。
「男子のほーどーっすか」
がひょいっと男子の更衣室を覗くと、「うわ、こりゃひでえ」という声が聞こえた。
その声の持ち主は、これまた明日から正式にキャプテンに就任する宮城リョータのものだった。
「おお、ちょうどよかった。、手伝え」
「えー、なんすか」
宮城の指す方向を見ると、それは桜木花道のロッカーだった。
たった3ヶ月でどうやったらここまでになるんだろう、というくらい物が詰め込まれていて、宮城が開けた瞬間雪崩が起きたらしい。
「ついでに片付けてやろーと思ってよ」と言いながら宮城は適当に見つけたノートを開いた。
何の教科のノートかは分からないが、表紙には「天才・桜木!!」と気合の入った字で書かれていた。
とりあえず雪崩が起きない程度には荷物を詰め込み直し、無事桜木のロッカーの整理を終える。
赤木と木暮が使っていた分のロッカーは、今のところ誰も使う予定がない。
新入生が来るまでに、きっと好きなマンガとかCDとかを入れる用途として使われてしまうことだろう。
そして、宮城は最後、
「よし、そこに飾れー」
「フツーこーゆーのオトコの仕事じゃないっすか?」
「うっせー。テメーのほうが高ぇだろーが」
に、額縁に入った県予選準優勝の賞状を飾らせた。
宮城的に納得の行く位置に飾ることが出来たらしい。
腕を組んで、うんうん、と頷いている。
「よし、。俺らの代ではここに『優勝』の賞状を飾るぞ」
「えー、メンドクサ……オッス」
ギン、と睨まれては慌てて返事をした。
「そんで、IHでも賞状とカップを持ち帰ってやる!わかったな」
「オッス」
彼なりの、新キャプテンとしての抱負なのだろう。
掃除が終わったのでは男子の更衣室を後にすることにした。
最後に、もう一度だけ県予選の時に手に入れた賞状とカップを見る。
これに比べると、女子の更衣室ってなんか殺風景だな、とは思った。
水曜日から、流川楓は再び旅立つ。
旅立つと言っても1週間、全日本ジュニアの合宿に参加するだけだ。
流川楓は、「しっかりしろよ。あんまりメーワクかけんじゃねぇぞ」と、いつもの言葉を自転車の後ろに座っているに掛けた。
「わかってるよ」とは言うが、この言葉は基本的に守られた試しがない。
どうせ自分が戻って来る頃には、は何らかの不調を起こしているのだ。
いつものことだというのに、こいつはそれを理解していない。
(オレがいなきゃ、こいつはタダのちゃらんぽらんの不良女だ)
全日本ジュニアの合宿に、当然ながらは呼ばれていない。
日本中の、いや、世界中の殆どが、まだこいつのバスケを理解していない。
「宮城センパイメッチャ張り切ってるよねー。冬も全国行くぞーって」
「……テメーはどうなんだよ」
「部員ぼしゅーちゅーってとこかな」
は笑いながらそう言った。
相変わらず、バスケに対してやる気が無い。
流川が心の中で溜息をついていると、が妙なことを言った。
「あれ……。あのパンダ、またいる……」
「…………?」
パンダなんて、動物園にしかいねーだろ。
流川が呆れて言うと、「うっせーな。そうじゃなくて……」と言った。
「……『そうじゃなくて』?」
「……別に、なんでもないよ。合宿、ガンバって」
がそう言うので、流川も気にせず自転車を漕いだ。