その日、練習前の更衣室で、赤木晴子はなんだか嬉しそうだった。
理由を尋ねると、彼女は「桜木くんから手紙の返事が来たの!それに……」。
まだヒミツなんだけどね、と付け加えて、にこっそり教えてくれた。
「本人たちには伝えてあるんだけど、湘北から3人も国体のメンバーが選出されたの!スゴイことよね!……きっと、桜木くんもケガがなかったら……」
晴子は国体で活躍したかもしれない、幻の赤頭を想像してキラキラとしたような目になった。
彼女はバスケの話をするといつもこうなる。
「流川くんが戻ってきたら部活の人たちにも正式に発表することになってるの。だから、まだナイショでお願いね」と言って、彼女は先に体育館に向かった。
着替え終えたが遅れて体育館に向かうと、既に練習を始めている人影が、2人。
三井寿と、宮城リョータだった。
ふたりとも、いつも以上に気合を入れて練習している。
なるほど、3人、か。
は、ますます流川やバスケ部のためにしっかりしなくては、と思ったのだった。
75.あの子のなんにもわかっちゃない
ちょうどこの近くに、水戸達が中学の頃から世話になっているラーメン屋があるらしい。
事情を説明すれば中で匿ってもらえるだろうと、流川たちは逃げるようにして工場を後にした。
の髪は不揃いに切られ、顔はところどころ腫れ上がっている。
とても人前に出れるような状況ではなかった。
部活で使っている服に着替え、俯いているを保護するように移動した。
そのラーメン屋の前では、ここまで歩いてきたのだろう。
今にも泣き出しそうな藤崎と、それのお守りをする野間がいた。
「……ちゃん!まゆまゆ!」
藤崎がこちらに気が付き駆け出そうとするが、の異常を目の当たりにしてはっと立ち止まった。
「……とりあえず、中入ろうぜ。おやっさんには説明してあるからよ」
野間に促されるまま、8人は店と繋がっている家の中へと移動した。
部屋の中は悲壮感にあふれていた。
は部屋の隅にうずくまり、藤崎千咲がそれに寄り添うように座っていた。
あらかたの手当が済んだところで、黛が水戸を引き連れての服を買いに行った。
どうしてこんなことになってしまったのか。
流川は無意識に拳を握りしめ、手のひらに血が滲んだ。
家の鍵を忘れた。
全日本ジュニアの合宿が終わり、最寄り駅についた時に流川が気がついたのはそのことだった。
まだが家に帰ってきているか確証がなかった。
仕方がないので再び電車に乗り、学校に向かった。
誰もいなけりゃそれでもいいし、いたらいたで先生に挨拶でもしていくか、と思った。
学校の校門の前で、三井にあった。
練習はもう終わったのだろうか。
「よお流川、久しぶりだな」と、なぜかニヤニヤ話しかけられた。
ちょっと不気味に思っていると、肩に手をポンと置かれ、「お前もそのうち分かるぜ」と、三井に機嫌よく言われた。
その時、三井の背後の方で、藤崎がこちらに駆け出していってるのが見えた。
ひどく慌てた様子だった。
珍しく藤崎は三井に目もくれず、そのまま校内へと走っていった。
その藤崎の様子になぜか胸騒ぎを覚えた流川は、三井との会話もそこそこに藤崎の後を追った。
藤崎が話しかけたのは、彼女の天敵とも言える桜木軍団だった。
バスケ部のいなくなった体育館で適当にボールで遊んでいた桜木軍団は、「おー!チビッコ。なんか忘れモンか?」と藤崎に声を掛けた。
だが、藤崎は息を切らせたまま叫ぶように訴えた。
「ちゃんとまゆまゆが危ない!変な連中に目をつけられた!そいつらクルマも持ってたんだ!!」
その一言に桜木軍団は目の色を変えた。
「どういうことだ。車種とか、ナンバーとかわかるか?」
水戸が、肩で息をする藤崎に尋ねた。
「わかんない……。ここじゃ、あんまり見かけないクルマだった。外車……だったと思う。右ハンドルで……。ナンバープレートは……川崎、だった」
「まさかフィアットパンダのやつらか!?」
大楠は、藤崎の少ない情報からでも犯人がわかったらしい。
(フィアット……『パンダ』?)
どこかで、最近その単語を聞いたことがある。
そうだ、が言ったんだ。
『あれ……。あのパンダ、またいる……』
あれは、車の話だったのだ。
(なんで、言わなかった)
流川の胸に怒りがこみ上げる。
アイツはいつも、大事なことほど自分に言わないのだ。
桜木軍団は顔を突き合わせて相談している。
どうやら、たちに目をつけたのは相当タチの悪い連中らしい。
女を車に連れ込み、集団で暴行を加えるようなこと平気ですると、藤崎の手前少しだけぼかして話していた。
「タクミのヤローまだここにいたのか!最近ここらじゃ見ねーと思ってたんだが……!」
「あ!そう言えばオレ、今日ここに来る前アイツをパチンコ屋で見かけたぞ!気のせいかと思って無視したんだけどよ……」
「何!?……いや、好都合だ!まずはタクミを止めるぞ!」
よくわからないが話は纏まったらしい。
流川はその様子を見て、体育館に姿を出した。
「オレも連れて行け」
「流川!」
「……流川……!」
「流川がいるなら心強いぜ!」と野間は喜んだ。
だが、藤崎は流川の登場にあまりいい顔をしなかった。
それを無視して、流川は水戸に「どこに行けばいーんだ」と尋ねた。
そして、まずは水戸の原付で、その集団をまとめている男がいるらしきパチンコ屋に向かった。
「どんなやつだ、そいつ」
いつも桜木軍団4人で必死に乗っている原付に、今日は水戸と流川だけが乗っている。
「タクミ自体は大したことねぇよ。家が金持ってるからって、自分とこの連中にクルマ貸したり場所貸したりして威張り散らしてるザコだ。けど、高校中退して以降やることが過激になりやがった。中学の頃、和光中の女子が被害に遭いかけてオレらと喧嘩したことがある」
「その『パンダ』ってのはなんだ」
「最近奴らが乗り回してる車のことだよ。イカしたイタ車だ。あいつらが乗るには勿体ねぇくらいのな」
水戸が剣呑な雰囲気で言い放ち、それと同時にパチンコ屋の駐車場に原付を止めた。
どいつがタクミだ、と店に入る前に水戸に聞こうとすると、水戸が「あ!」と声を上げた。
「なんだ」
「アイツだ!」
水戸は、入り口のすぐ近くの公衆電話で電話している、小太りの男を指した。
好都合だ。
男はこちらに気づいている様子はない。
2人で男の背後まで近づいた。
「え、マユカちゃんも捕まえたの~?いいじゃんいいじゃん。じゃあオレもすぐ行くわ」
マユカ?ああ、黛の下の名前がそんなんだった気がする。
つまり、コイツがタクミで確定していいのだろう。
水戸に目配せをしたら、頷かれた。
そして、受話器をおいた瞬間、水戸がそいつの首に腕を回した。
「うわっ、何しやがる!」
「テメーに聞きてぇことがある。3秒やるからその間に答えろ。今日お前らが拉致った子、どこに連れてった」
「げっ、お前は水戸洋へげっ!」
流川はすかさず男の顔面にパンチした。
「2秒だったな」
水戸は、くだらないものを見るような目つきで男を睨んだ。
とりあえずパチンコ屋の裏まで男をそのまま引きずり、改めて情報を聞き出すことにした。
パチンコ屋の裏で水戸に胸ぐらをつかまれ、凄まれた男はあっさりと仲間の情報を売った。
「こ、国道沿いの、廃工場だ……、知ってんだろ?そこに連れてく手筈になってる。ふ、ふたりともだ!ウソは言ってねぇ!」
「そうか、じゃあ二度とここに近づくんじゃねぇぞ。命だけは助けてやる」
水戸からどうにか開放された男は、情けない悲鳴を上げて公衆電話に走りだそうとした。
流川は男の背中目掛けてガスっと蹴り倒し再びパンチをお見舞いした。
「これでしばらく起きない」
「お、おう……」
その乱暴なやり口に、水戸は少々驚いた様子だった。
再び学校に戻り、すぐに廃工場に向かうという話になった。
「でもどうするよ、足がねぇぜ」
大楠が困ったように言った。
水戸の原付ではスピードが出ない。
せいぜい2人までだ。
流川はポケットから自転車の鍵を取り出す。
「の乗ってきた自転車があるだろ、オレのだ。使っていい」
「あ、ああ、助かる。でも、なんで……」
「話は後だ、行くぞ。野間、チビッコを頼む」
「ああ」
結局、水戸と流川は原付で、大楠と高宮は流川の自転車で現場に向かうことにした。
藤崎のことは野間に任せ、流川たちは廃工場へと向かった。
廃工場に着き、大楠と高宮の到着を待たずに流川たちは階段を駆け上がった。
広い工場だが、使える部屋はそう多くないと先ほどの男から聞いていた為、黛の方は割とすぐに見つけることが出来た。
その部屋は普段、さっきの男が使っているのだろうか。
比較的質の良さそうなソファに座らされた黛は、身動きは取れないながらもその圧倒的な凄みで見張りの男たちを威嚇していた。
水戸と流川で不良を倒し、黛の拘束を解いた。
「は?」
「わからない。違う部屋に連れてかれた」
黛からそれだけ聞き出し、流川は他の部屋を探しだす。
ちょうどその時、自転車でやって来た2人も到着したらしい。
水戸が「非常階段から登って来い!」と声を掛けた。
流川は開く扉はないかと一つ一つ蹴り上げながら確認していく。
その時だった。
――イヤッ!
女の悲鳴が、聞こえた。
「っ!」
流川はその声に弾かれるように、聞こえた方角へと走りだした。
そこから先のことは、正直あまり覚えていない。
覚えているのは、の泣き顔と……。
(……ああ、チクショー。のハダカが、目に焼き付いてはなれねー)
流川は、そんな自分に少し嫌悪した。
「ちゃん、ごめんね……」
体育座りをした藤崎が、何故かに謝っていた。
何に対する謝罪なんだろうと思い、流川は耳を傾ける。
「僕、言わなかったんだよ、流川に……。ホントだよ」
「うん……わかってるよ、サキチィ」
は俯いたまま言った。
その言葉に納得行かないのは流川である。
「おい、どういうことだ」
なぜ、藤崎が自分にこの件を伝えたことをに謝るのか。
オマエ、オレがいなきゃコイツが今頃どうなってたかわかってんのか。
流川は藤崎に凄む。
「オレに隠そうとしてたのか」
「流川……!」
険悪な雰囲気を感じ取り、野間が止めに入るも流川は耳を貸さない。
藤崎は怯えたように首をすくめた。
気に食わない。
そうだ、何で黙ってた。
随分前からは車のことを認識していたはずだ。
どうして肝心なことを何も言わない。
オマエを守れるのはオレだけだ。
なぜそれを理解しない。
流川は自分の身を守るようにうずくまるを睨みつけた。
「待って、流川……」
藤崎が、を流川から隠すように抱きついた。
「ちゃんを助けてくれたのは、本当に、ありがとう。……だけど、わかってあげて、ちゃんのことも……」
その言葉に、流川はまたもや頭に血が上るのを感じた。
『わかってあげて』、だと?
何言ってやがる、コイツのことを一番理解してるのはオレだ。
テメーには何もわからねぇ。
こいつはしょうもない女なんだ。
バスケの才能があって、でもそれを発揮することに興味がなくて、家に帰れなくて、オレが拾ってやって。
それで初めてなんだ。
オレがいなきゃコイツは……。
「サキチィ、いいよ。……流川も、ごめん。ありがとう……」
なんで、オレに何も言わない。。
『……お願い。桜木軍団に伝えて。でも、バスケ部には言わないで』
守りたかった。
国体に張り切る先輩たちを。
新体制へと移行したバスケ部を。
そして、桜木花道の帰りを待つ、赤木晴子の笑顔を。
バスケ部を、自分の事情に巻き込みたくなかった。
だけど、
『もう、もうやめてよ流川ぁっ!』
流川は来てくれた。
来てしまった。
既に戦意を喪失している相手まで暴行を加える流川に、は震え上がった。
やめて、そんなことしたら、国体いけなくなっちゃうよ、と。
は、なりに、バスケ部を守りたかった。
(何やってんだろ、アタシ……。全然だめじゃん……)
少し短くなってしまった自分の金髪に触れる。
ゴムはとっくにどこかに行ってしまった。
新しく買わないとダメだろう。
の目に、再び涙が溢れた。
その時ヌッと自分の体に大きな人影が覆いかぶさった。
はビクッと震え、思わず顔を上げてしまった。
流川だった。
ラーメンの載ったお盆を持っている。
彼はただ、にそれを届けに来てくれただけだというのに、必要以上に怯えてしまった。
「ごめん、なさい……」
そんな自分が情けなくて、情けなくて。
は結局また泣いた。
いつからだろう、自分とが違う、と気がついたのは。
あの日だ。と流川は思い出した。
と1on1で戦ったあの日。
あの日、部活の後だというのに、流川の体はよく動いた。
反面、は本気の流川の前ではすぐにバテた。
歯が立たなかった。
仕方がない。
は女で、流川は男なのだ。
それが更に流川のいらだちを助長させた。
どうしてこんなにも才能があるやつが女なんだ。
どうしてこんなにも才能があるやつが、俺と同じ夢を見ないんだ、と。
が男だったらどんなに良かっただろう。
今みたいに同じ学校じゃなくても、どこかで情熱をぶつけあい、しのぎを削り合うこともあっただろう。
どうして、こいつは女に生まれてしまったのだろう。
女にさえ生まれてこなければ……今日だって、こんな目には合わなかったはずだ。
「ごめん、なさい……」
震えながら小さく泣く。
お盆を横に置き、前みたいに肩を抱いて慰めようとしたら、は一瞬化け物でも見るような目で流川を見て、慌てて首を振り、「ち、違う……!ごめんなさいっ……」とまた泣いた。
ああ、しまった。流川は自分の行動が軽率だったと気がつき手を引っ込めた。
わかってる、あんな目にあったんだ。
こいつは女で、そして俺は男なんだ。
流川は、自分にそう言い聞かせた。