流川は何も言わずの頭を撫でてやることにした。
よくわからないが、とにかくそういう気分だったのである。



76.自分を好きになる方法




 店主の温情によりラーメンを頂いてしばらくした後、水戸と黛が帰ってきた。
は黛が買ってきた服に着替えるため、トイレに移動した。
水戸が店主に呼ばれて部屋を出て行った。
しばらくして、黛が口を開いた。

「さっき家に連絡した。と藤崎は私の車で送ってく」

その言葉を聞き、流川はすかさず反論した。

「ダメだ。はオレが送る」
「はあ?……クルマのほうが安全だろうが。いくら家近いからって今日くらいは別に……」
「オレが送る」

大楠が、「おいおい流川……」となだめた。
だが、流川は一歩も引く気はない。
なぜなら、は今流川家に住んでいる。
黛がの家に送り届けたところで、二度手間になるだけだ。
そしてなにより、今日はもう、一瞬たりともから目を離しておきたくなかった。

「流川……テメーいい加減にしろよ……」

事情を説明せず、ひたすら「はオレが送る」と言い続け譲らない流川に、黛が呆れたように怒った。
流川も無言で黛を睨みつける。
ちょうどその時、水戸が「マユカちゃん、おやっさんがラーメンくれたんだけど……」と、お盆に乗ったラーメンを2つ持ってきた。
「……いらねーか」。睨み合う黛と流川を見て、水戸はおどけた。
そして再び襖が開いた。
服を着替えただった。
は今までの会話を聞いていたらしく、「……ごめん」と謝った。

「まゆまゆ、アタシ流川に送ってもらうから……。サキチィのことだけ頼むよ」
「おい、……!」
「ありがと……、ごめん」

納得できず、引き下がりそうにないのは黛も一緒だった。
は三度目の「ごめん」を、流川の方を見て言った。

「アタシ……、いま流川んちに世話になってんだ」

その告白に、水戸以外の桜木軍団は「えー!」と目を丸くして驚き、水戸は今までのことに合点がいった、というふうな表情でラーメンを啜った。
藤崎もびっくりしているように流川を見つめた。

「黙っててごめん。……でも、そういうことだから」

黛はしばらく流川を睨みつけたが、「……わかったよ」と言って水戸の隣に苛々した様子で座ってラーメンを食べ始めた。

「ごめん流川、喋っちゃって……」
「別に……」

緊急事態だったから、仕方がない。
黛の車が到着するまでまだ時間がかかりそうだったので、流川は先に帰ることにした。



 自転車の後部座席に座ったは、黙りこくっていた。

(ああ、あの日と一緒だ)

背中に伝わる涙の感触に、流川は初めてを家に連れて帰った日の夜を思い出した。

「……テメー、何で言わなかった」

流川は怒りを込めて、低い声で尋ねた。

「気づいてたんだろーが。変な奴らに、狙われてるって」

それを知っていれば。
が身の危険を感じていると前もって知っていれば、いくらでも対処してやった。
今日みたいな事になる前に、奴らのアジトに乗り込んでやっても良かったのに。
気づかなかった自分にも、何も言わないにも怒りがこみ上げてきた。

「何とか、言え」
「……たくなかった……」

は、消え入りそうな声で言った。

「あ?」
「る、るかわに……、メーワク、かけたく、なかったっ……」
「……?」

マズイ、コイツ予想以上にビービー泣いてやがる。
そのことに気がついた流川は慌てて自転車を止めた。

「おい、どうした」
「だって、……アタシっ、しっかり、しなくちゃって、思ってて……。流川いなくても、ちゃんと、やれるように……なりたかったっ……!」

それだけ言って、は流川の腕の中に飛び込むようにして泣き始めた。
このの涙は事件のショックから来る涙ではない。
自分の不甲斐なさからくる涙だということは、流川にも理解できた。

「ア、アタシ、どーして……こんな、うまく、いかないんだろっ……。み、みんなに、メーワク、かけちゃって……。るかわに、い、いわれたのに……!」

えーんえーんと子供のように泣きじゃくるに、流川は動揺する。

「……い、言ったか?そんなこと」

しかしどうして本来怒っていたのはこちらなのに、自分はに対して罪悪感を持たなくてはならないんだろう。
流川はちょっと理不尽に思った。

「言ったよ……!メーワク、かけんなって……。しっかりしろって……!アタシに、何度も……!だから、そう、したかったんだよぉっ!」

言ったか?言った……ような気がする。
流川は更に動揺する。
だって、コイツがそんなことイチイチ気にしてるなんて、思いもよらなかった。
流川は困惑しながらの背中をさすった。
しかしは更にヒートアップして泣いた。
なんだこれは。

(オレか?悪いのはオレなのか?)

流川は慌てる。
だって、にこんなことを言われるなんて、想像もしていなかった。
そもそもがこんなことを考えている事自体、全く知らなかったのだ。

(そうだ……。全然、知らなかった)

自分は、のことを理解したつもりでいた。
でも、それは気のせいだったのかもしれない。
なぜなら、現に、自分がを泣かせるほど追い詰めていた自覚がなかったのだ。
流川はそのことに気が付き、頭の中にずっとあったへの怒りの一部が、すぅっとなくなっていくのを感じた。
少しの、喪失感のようなものも伴って。

「おい」

の両肩を掴み、流川は顔を上げるように言った。

「……なんか、誤解してる、と思うぞ。……テメー」

流川は泣いているを睨みつけて眉間にしわをよせた。
だめだ、うまく言葉が出てこない。
もともと、言葉が苦手なのだ。
だが、この期に及んでそんなことを言っていたら、こいつのことが一生理解できない、……気がする。
流川は、まず、「のことならなんでも分かっている」という考えを捨てよう、と思った。
そう思うと、流川にはが突然宇宙人か何かのように見えた。
だって、驚くほど違うのだ、自分とは。
流川はこんなに小さくないし、細くもない。
髪だって長くないし、こんな色はしてない。
化粧もしなければ、胸は……コイツもない。

(ああ、そうじゃねー……)

流川が突然脱線してしまった思考を振り払うように頭を振ると、は驚いて一瞬ビクッと警戒した。

(何が言いたいかってのは、つまり)

自分が男で、が女である、ということだ。
いや、そんなの最初からわかってた。
これはどう見ても男には見えない。
見えないが、流川はそれを理解していなかったように思えた。
つまり、と流川楓は、同じ考えを持って同じ行動をする生き物ではない、ということを、流川はようやく今、理解したのだった。
流川は、のバスケを見て。
ずっと、自分と同じだったらいいのに、と思っていたのだ。
夜のバスケットコート。
キラキラしているのバスケ。
だが、その輝きは一瞬のことだった。
を拾った夜。はなぜか踏切の前で家にも帰らず泣き続けていた。
流川はあの輝きがもう一度見たくて、どうしても見たくて、家に連れ帰ったのだ。
こいつはオレと一緒だから。バスケさえあれば生きていけるから。
でも、どうやらそうじゃなかったらしい。ということに気がつくのに、少々時間がかかった。
そして、気がついたら気がついたで、なんて寂しいんだ、と流川は思った。

(オレと同じじゃねーんだ。は……)

少しさみしいが、仕方がない。
これを受け入れなければ、を理解できる日は永久に来ない。

(……別に、理解してーなんて思ってねーけど……)

流川は心の中で誰かに言い訳をした。
そして、ようやく口を開いた。

「『メーワクかけんな』って言うのは……。別に……、『変なコトしてふざけてんじゃねー』って意味で、『しっかりしろ』っつったのは……。なんだ、……ちゃんと、風邪引かなかったりとか、飯喰ったりとか、バスケしたりとか。そういう、フツーのコト、フツーにやれって意味だ。……で、変なコトっていうのは、その逆だ。変な時間まで外ほっつき歩いてたり、妙な連中に飯おごってもらったりとかのことだ」

こんなに喋ったのは、いつ以来だろうか。
生まれて初めてかもしれない。
そもそも、自分の家では女がしゃべるのだ。
物心ついた時から姉が自分の代わりにその二倍、三倍程度は喋っていた。
だから、父も、兄も、自分も、寡黙になった。
それでよかった。ラクだったから。
でも、そのツケを、今払ってるのかもしれない。
流川は慣れない言葉で必死に伝えようとしている自分を、頭のどこかでそう評した。
は流川のことを見上げながら鼻を啜った。
少し泣きつかれたのか、流川の話を大人しく聞いているようだった。

「ああ、だから、つまり……」

そう、何が言いたいのか。ようやくわかった。

「オレを、頼れってことだ。……ちゃんと、守ってやるから」

そこで言葉を区切ると、は目を大きく開き驚いたような顔を作った。
しばらくして、その大きくした瞳から再び涙が溢れてきた。
これ以上まだ泣くのか、と呆れる前にが胸にタックルするように飛び込んできて、思わず「うっ」と声を漏らしてしまった。
流川は何も言わずの頭を撫でてやることにした。
よくわからないが、とにかくそういう気分だったのである。
結局、少しも泣き止む気配のないを自転車に乗せて帰る頃には、すっかり夕方になってしまった。



 家に帰ったら、はリビングのソファに倒れこむようにして眠り始めた。
いつもだったら「こんなとこで寝んじゃねー」と蹴りを入れているところだったが、事情が事情なのでそっとしといた。
しかしは泥のように眠っている。
このまま死んでしまうんじゃないのかというくらい、こんこんと眠り続けている。

(そういや、死ぬといえば……)

流川の頭に不穏な考えがよぎった。
やはり、ああいうことをされた女って、突然自殺を図ったりするものなんじゃないだろうか。
トラウマ?みたいなやつで。
流川はちょっと焦ってソファで行き倒れているを見た。
ガーゼの貼られた顔が痛々しい。
髪も少し短くなっている。

(死……なねー、よ。な?)

ちなみに、なぜ流川がこの発想に至ったのかというと、ちょうど昔姉が見ていたドラマの主人公がこんな感じだったのである。
全体的に暗い話でよくわからなかったが、性被害にあった主人公が刃物で自殺を図るシーンがあった。
それをヒロインの相手役の男が止めるというシーンだったのだが、そのシーンで姉は「わかるわー」とヒロインに共感していた。
(わかるのか!?)とギョッとして流川が姉を見たら、父親も全く同じ顔をして姉を見ていた。
姉がそんな目に遭ったなんて聞いたことがない、と驚いたが、結局姉は「俳優に優しく諭される自分」を想像して酔ってるだけだった。
女とは実に適当な生き物である、と流川は学んだものである。
さて、そんなどうでもいいことを思い出していたら、がむくり、と起き上がった。

「……いま、なんじ……?」
「……5時」

「ん」とだけ言っては立ち上がる。
ちょっと観察していると、は突然ハサミを持ちだした。

(!?)

やっぱり、死ぬのか、コイツ。
トラウマみてーなやつで。
はハサミを持ったままふらふらとリビングを出て行った。
流川も慌てて後を追う。
どうすればいい。
生きてりゃ良い事ある的なことを言えばいいのか。
やっぱり黛に預けとけばよかったか。
不審に思いながらに着いていった先は洗面所だった。
何する気だ。何する気だ。と流川が若干冷や汗をかいていると、はハサミ以外にもいそいそと色々なものを取り出した。
最後に、小さいビニールシートのようなものを床に敷く。
そして、自ら、チョキチョキと、髪の毛を切っていった。

「……何してんだ、テメー」
「はあ?見りゃわかるじゃん。髪切ってんだよ」

はなれた様子でチョキチョキザクザク髪を切っていく。
から離れた金色の髪の毛は、ビニールシートの上に落ちていった。

「つーかそんな見ないでよ。手元狂っちゃうじゃん」
「……なんで切ってんだ?」
「そりゃ、こんなんじゃ人前歩けねーだろーが」

サクサク、ジャキジャキ。
最後は毛先をくしとかで抑えて全体的に整えて、は「よし、と」と言った。
満足の行く仕上がりになったようだった。

(し、死ぬんじゃなかったのか……)

安堵と、突然の行動に対する呆れで、流川の体から力が抜ける。
髪を下ろすと肩甲骨くらいまでの長さまであったの髪は、首のあたりまでの長さになった。

「アチーから結べるか首出るかくらいがよかったんだよね。どう?アタシ髪切るの上手でしょ?トクイなんだ」

はそう言って笑った。
流川は、の髪型が変わって初めて、自分はコイツのポニーテールが割と嫌いじゃなかったんだな、と自覚した。
は片付けをした後、さらに鏡を見て、「これどーっすかなー」と赤のメッシュをいじっていた。



「ホントはさ、今日ご飯炊いとく予定だったんだよ。でももう遅くなっちゃったから。あれにしよ、力うどん」
「力うどん」

夏に食うメニューとしてはどうなのか。
流川は髪を切ったと近所のスーパーに買い出しに来ていた。
曰く、「流川のおかーさんが今日の分までのおかずは作っといてくれたから。明日からの分はアタシに任せてね」とのことだった。
は「モチはあったからさー」と冷凍のうどんと、天かすやネギなどをどんどんカゴに入れていった。
カゴを持つのは流川の役目だった。
会計の列に並んでいる時、は「あ」とだけ言って、ささっと列からいなくなった。
しばらくして戻ってきたは、整髪料のようなものをカゴに入れて、会計した。



「いっただきま~す」
「……イタダキマス」

食卓に並んだのは、牛ロースステーキ、きのこと人参のソテー、マッシュポテト、そして、力うどん。
多分、おふくろはご飯が炊けていることを想定してこのメニューを用意したんだな、と流川は思った。
の方を見ると、普通に力うどんをもちもち伸ばして食べて、ステーキも食べていた。
テレビの芸人を見て笑っている。
そんなを見ていたら、食べ合わせを気にしている自分が馬鹿らしくなって、流川もうどんを啜った。
食事が終わった後、は「アタシ洗いものしてるから流川先にお風呂入っていーよ」と言った。
いつもだったら暗黙の了解で男は後に回されるのに、珍しいこともあるもんだ。と思いながら流川は「おお」と返事をした。
流川はこの時まだ気が付かなかった。
がもう一回、変身を残していることに……。



 風呂から上がり、に「上がった」と告げた。
「ん」と言ってが風呂の支度を始めた。
流川は水を飲みながら一息つく。
長い一日だった。
合宿から帰った時は、こんなことになるなんて思いもよらなかった。
のアレは、空元気なのだろうか。
流川は目を覚まし、迷わず髪を切ったを思い出す。
流川には、が無理をしているのかどうか、わからなかった。
しばらくたって、風呂の水の音が消えた。
今日はやけに長かったな、と、流川は英語のリスニングのCDを聞きながら思った。

「アッチ~」

と言いながら、バスタオルを被ったがリビングに戻ってく……る?

「……誰だテメー」
「……オメー、ほんっとそーゆーとこ失礼だよなー」
「!?」

声でわかった、、か。
流川は目を見開いて驚いた。
なぜなら、の髪色が、真っ黒になっていたからだ。
あの派手な金も、その中にあった赤も、もうどこにもない。
まして髪も短くなっているから、流川が一週間前に見たとは最早完全に別人の域だ。

「まー、ほら。ハンセイの証ってやつ?アタシのせいであんなことにみんな巻き込んじゃってさ。ちょっと……大人しくしようかと」

そう言って、は自分のまだ濡れている髪の毛を触った。
流川は、(反省して髪型変えるって、発想が桜木レベルだぞ)と思った。
思ったが、何も言わなかった。

「う~ん。金はともかくねー、赤、こだわりあったんだけどな。まあ、でもいいや」

は吹っ切るようにそう言った。

「そうだったのか?」

女の髪型のこだわりのポイントなんて、流川にはよくわからない。

「うん。昔ね、アタシのこと助けてくれた赤い髪のヒーローがいたんだ。めちゃくちゃ嘘つきだったけどね。その人にあやかるつもりで……」
「ふぅん……」

赤い髪なんて、桜木みてーだな、と言ったら、「アハハ。確かに」とは笑った。

「じゃあ、何で金にしてたんだ」
「そりゃーもう目立つし、強そうだったから?……強くなりたかったんだよね、アタシ。せめて、見た目だけでも」

は目を伏せる。

「ま、でも実際強くなったわけでもないし、それどころか変な奴に目つけられることになったし。『百害あって一利なし』ってやつ?だからいーんだ。しばらく封印!」
「そうか」

やっぱり流川は、自分が意外との金髪を気に入っていたことを、黒髪になってから自覚した。
見慣れないせいか、今のにはどうも違和感がある。
だが、

「だって……ほら、もう、目立たなくても、見つけてくれるでしょ?……アタシのこと」

は、伏し目がちに覗き込んできた。
まるで、迷子だったところを見つけてもらえた、子供のように。

「……ああ」

流川がそう返事をすると、は泣きそうな声で「……ありがとう」と言って、幸せそうな笑みを浮かべた。
こんなふうに笑うを見たのは、初めてかも知れない、と流川は思った。
いや、初めてではない、かもしれない。
桜木といる時、こいつはたまにそういう風に笑った。と流川は思い出す。
自分が、のこの笑顔の対象になったのが、初めてだったのだ。
流川がそのことに気づいた時、既には髪を乾かしに洗面所へ戻っていた。