流川楓は、再び日本一を目指して神奈川を出発する。
「行ってくる」
短いその言葉からは、国体への気合が十分に感じられた。
「ん、行ってらっしゃい」
「気をつけてね」
も流川の母親と一緒に玄関で流川を見送る。
流川は玄関のドアを開ける前に一瞬こちらを振り返り口を開きかけて、ちょっと躊躇したように口を閉じた。
は、それだけで流川が何を言いたいかわかってしまった。
(大丈夫だよ、しっかりするって)
でも、『しっかり』ってどうすればいいんだろう。
どうすれば流川は納得してくれるだろうか。
自分の様々な『前科』を思い出しはうーんと悩む。
とりあえず、
(そだ。国体の間のノート、帰ってきたら流川にアタシの見せてあげよ)
と思った。
85.だからこの一週間は、綺麗にノートを取らなくてはならない。
「センセー、さっきの授業で分かんないとこがあったんすけどー」
「お、おお。か。珍しいな。……どれどれ」
その日の昼休み、は早速職員室を訪れた。
普段だったらわからないところがあっても「ま、いっかー」で済ますだが、「流川に見せる」ことを前提でノートを取っている以上、理解できなかったところを放置するわけにはいかなかったのだ。
「ここっす、ここ」と、ノートに書いてある演習問題を指す。
そこにはごちゃごちゃと持ち主の思考を書き殴った後があり、教師はすぐにがどこで躓いたのかを理解したようだった。
「なるほどー。じゃ、こっちじゃなくてそっちの公式を当てはめて?単位は?モル?」
「いや、ここでmol係数は関係ない。……授業聞いてたか?」
「ぜんぜん」
教師は呆れていたが、はどうにか答えを導くことに成功した。
良かった良かったと、教師とは胸をなでおろし、はノートに正しい答えの導き方を清書した。
その様子を見た教師は、「どうした。2学期になってやる気が出たか?勉学の秋か?」とをからかった。
は「そんなんじゃないっすよー」と笑ったが、「そこは嘘でも『はい』と言え」と言われてしまった。
そして「ありがとーございました。ついでに古典のセンセー呼んでください」と、化学の教師にお礼を言いながら注文をつける。
「オマエというやつは……」と、の態度に教師はため息をついたが、勉強に意欲を見せる生徒を悪く思う教師はいない。
は、化学の教師に呼び出してもらった古典の教師にも、授業中にわからなかったことを質問した。
そして問題を解決した後、礼を言ってから職員室を出て行った。
「ごめんねー。お待たせー」
そして、職員室の前に待たせていたクラスメートたちに声をかける。
昼休みに屋上でバレーボールをする約束だったのだが、職員室に用事がある、と言ったを彼女たちは待ってくれていたのだ。
「ううん、いーよいーよ」
「気にしないで。それにしてもさんマジメだねー。どしたの?」
「そうそう。髪の毛黒くしたのとなんか関係あんの?」
は、「そんなことないよ」とか「んー?関係あるようなないような……」とか答えつつ、屋上へ向かった。
屋上には、晴天が広がっていた。
(流川たち、今ごろ頑張ってんのかなー)
眩しそうに空を仰ぎ見ながら、は思った。
そんな生活が2日続いた後の水曜日。
湘北バスケ部は今日も真面目に練習に励んでいた。
そして、部活が終わり。
「じゃー明日駅から一緒に行こっか」
「別にいいわよ」
は、明日の国体に一緒に向かう黛達と電車の計画を立てていた。
と言っても、は時刻表や路線案内を読んでもちんぷんかんぷんなため、安田が立ててくれた計画に乗るだけだが。
「藤崎と朝倉は行かないのか?」
「僕今お小遣いがピンチで……」
「私も勉強のほうが……」
2人はとほほ……と肩を落とす。
まあ栃木は学生にはちょっと遠い。距離的にも、お金的にも。
黛は「新幹線の指定席くらいなら買ってやるわよ」と誘ったが、藤崎は東京までの旅費すらないらしい。
ゲーセンに使いすぎた自分への戒めとしても、今回はいい、と遠慮した。
ちなみには「マジ!じゃあ指定席お願い!」と一切遠慮せず要求した。
そして安田の立てた計画では、約 2時間ほどで栃木に着くとのことだった。
「へー。いー時代だね。栃木までこんな短時間で行けんだ」
もっと遠いと思ってたよ、と安田がくれた電車の乗り換えメモを眺めながらつぶやいた。
「アタシ新幹線乗るの初めてなんだよねー。まゆまゆは乗ったことある?」
「あるに決まってるでしょ。今年の夏は家族で神戸の別荘まで新幹線で向かったもの」
「べっそー……」
金もあって美人で更にそれを臆すこと無く鼻にかけまくる黛を見ていると、最早妬んだり羨んだりする気にもなれない。
は「とりあえず明日よろしくね」と言って体育館の掃除を始めた。
明日、女子部では黛とが国体に向かう。
マネージャーの2人も国体に行くらしいが、用事があるとのことでたちより少し早めに、安西と現地に向かうらしい。
(用事って……桜木のことだよなぁ)
久しぶりに、会えるといいのだけど。
はそう思いながらモップがけをした。
その日の夜、流川家に電話が掛かってきた。
流川のお母さんがその電話を取り、しばらくしてに声を掛けたきた。
「ちゃん、楓から電話よ」
「ハーイ」
は部屋から出てバタバタ階段を降りる。
「もしもし?」
『オレだ』
「うん、知ってるよ」
は返事をする。
流川は一応大会の状況を教えてくれた。
神奈川選抜、今のところトーナメントを順調に勝ち抜いている、と。
『明日、ちゃんと来るんだろうな』
「うん、ちゃんと行くけど」
『なら、いい』
流川は念押しするように確認してきた。
その後お互い無言になってしまい、なんとなく電話を切る空気になってしまった。
(用事ってこんだけかよ)
と、わざわざ公衆電話に金を払って電話をしてきている流川を思っては呆れた。
だが、しばらくして電話の向こうで誰かが流川と話す声が聞こえた。
そして、
「……花形……サンに、換わる」
「今一瞬呼び捨てにするかどうか迷ったろ?」
がからかい終わるのとほとんど同時に、電話の向こうから優しい声が聞こえてきた。
『、久しぶりだな。調子はどうだ?』
神奈川選抜参加者の1人、花形透の声だった。
(……と何話してんだ?)
『流川、終わったら換わってくれないか?』
と電話してものの30秒ほどで会話が終わってしまった流川楓は、電話を切ろうかと思った時に花形透にそう声を掛けられた。
花形は几帳面そうに10円玉を何枚も積み重ねたケースを電話のすぐ横に置き、電話が終わるのを待っていた。
流川楓は花形透にそんなに饒舌なイメージを持たなかったが、との会話の種は尽きないようだった。
(……オレとは一瞬で終わったじゃねーか)
今も楽しそうにと談笑し続ける花形透を睨みつける。
(てめー、何だこの差は)
そして、この場にいないのことも心の中で睨んでおいた。
「ああ……。さすがには来ないさ。受験生だしな。藤真?……オレも似たような感じだな」
何の話をしているのだろうか。花形は朗らかに笑う。
受話器からは、の笑い声が漏れ聞こえた。
それがなんだか無性に癇に障った。
――花形透は、自分の知らないを知っている。
だからなんだというわけではないが、流川は(だから話すことが多いんだ)と、勝手に自分との会話が弾まなかった理由を作り上げた。
(そもそも、別にあいつと話してーことなんてねー)
流川は(なんでオレはこんなことにこだわってんだ?)と自分で自分を不思議がった。
には、ただ明日バスケを見に来てもらえればいいだけだ。
ちょうどいいことに、明日の対戦相手は……。
「なんだよ、流川。テメーも電話か?」
「……ウス」
その時、公衆電話のエリアに同校の三井寿が現れた。
三井はポケットに適当に突っ込んでいた小銭をチャリンと入れた。
どうやら親にかけているらしい。
花形はその隙にも、もう一枚10円玉を投入した。
三井は親と言い合いのような、申開きのような会話をしている。
しばらくして、先に電話を切ったのは三井だった。
そして、花形の方もようやくとの会話に一段落が着いたらしい。
「花形よぉ、お前、と電話してんのか?だ、だったらよ」
ちょっとオレと換わってくんねーか?と、三井寿が言い終わる少し前に、花形透は受話器をおいてしまった。
「わ、悪い。に何か用事があったのか?」
「……いや、別にねーよ……」
三井は口ではそんなことを言うが、あからさまに肩を落としていた。
しかし自分はなぜこんな他人の電話を監視するようなマネをしていたんだろうか。
流川はそう思い、――三井と花形がもう誰にも電話する様子がないのを確認してから――部屋に戻った。
男子が自由席なのは自分がケチだからではない。単純に売り切れていたからだ。
新幹線の座席に座りながら、黛繭華はにそう説明した。
は興味あるんだかないんだか、「へー」と言って窓際の席から楽しそうに景色を眺めていた。
男女ともに安田が昨日までに調べてくれた電車に予定通り乗れて、現在東京駅を出発したところだ。
黛は車窓を眺めながら、(まさかこの私がバスケの試合を見に栃木に行くとはね……)と、ちょっとだけ感慨に耽っていた。
中学の頃は、まさかこんなにバスケに時間を費やすことになるとは思ってなかった。
そりゃあ、かっこいいなと思う選手の試合くらいは見に行っていたが、自分がここまで部活にまともに参加する事になるとは。
(中学の頃の連中が私見たらどう思うかしらね)
黛は、なんとなく遠い昔に捨てた煙草の味を思い出していた。
(……部活にまともに参加するといえば)
隣の席のを見た。
はアホ面を下げて「すげー。はえー」と言っている。
黛は、ここ最近のの様子について思っていたことを口に出した。
「、あんたさ、最近なんかあった?やけに気合入ってんじゃん」
先週の土日の試合も、相手が弱いこともあってバスケ部は圧勝することができた。
もちろん、そのチームの成績にはの多大な貢献がある。
要するに、がすごくバスケに張り切っているように見えるのだ。
だが、
「ん?そお?」
と、当の本人はあまりわかってなさそうだったが。
「なんだよその返事。だってさ、あんた前までだったらわざわざ見に行かなかったでしょ、国体の試合なんて。栃木まで行ったりしてさ」
黛は呆れつつも指摘する。
そうだ、わざわざ貴重な祝日を費やしてまでバスケの試合を見に行くだなんて、はそんなキャラではなかったような気がする。
「国体の応援?めんどいから行かなーい」とか平気で言うようなやつだった。
しかし、は黛に意外な返答をした。
「だってさ、桜木来るっていうんだもん。会いたくない?」
「え?そんだけ?」
黛は思わず拍子抜けをする。
そのためにわざわざ栃木まで行くというのか、コイツは。
黛がそう言うと、は「あはは、まさかそれだけじゃないって」と笑った。
「なんだ、びっくりした。アンタが言うからマジかと思った」
流石に桜木はついでだろう。
なんたって、今日やるのは今回の国体の中でも最注目カード、神奈川選抜VS秋田選抜なのだから。
さすがのだって、この試合に興味が無い訳はあるまい。
……と思ったのだが。
「だって、流川が来いってゆうんだもん」
ポキっと棒状のスナック菓子を折りながら発言するに、黛は今度こそ脱力した。
「あんた……それマジで言ってんの?」
「え?そおだよ?流川には世話んなってるしさ。アタシ今週めっちゃ丁寧にノート書いてるんだ。国体終わったら写させてやろーと思って」
はケタケタ笑いながら得意気に言った。
どうやらは高校生活始まって以来、一番まともにノートを取っているらしい。
黛はそんなに眉をひそめ、「それ流川には言わないほうがいいわよ」と忠告した。
「……?なんでよ?」
「……なんでって……」
気づいていないのだろうか。
が国体を見に行くことを決めて以来、流川楓のやる気が目に見えて上がったことを。
ただでさえ異常な情熱をバスケに燃やすあの男が、更にやる気を出すなど尋常じゃない。
何か期待しているのだ、に。
しかし、この様子を見るに、肝心の側にその期待に答えそうな気配など微塵も感じない。
(今回の国体が、またなんかのケンカのきっかけになんなきゃいいんだけど……)
夏休みが始まる少し前、流川との仲がこじれていたように見えた。
仲直りができたという報告は聞いていないが、二人のことだ。
おそらく、なし崩し的に関係を一旦修復したんだろう。
(だって、あの事件があったから)
黛は約一ヶ月前に、と車で連れ去られたことを思い出して、顔を歪ませた。
とにかく、そこでの救出劇がきっかけで仲直りをしたように見えた。
雨降って地固まる、というやつである。
しかし、それは裏を返せば、雨が降らない限り2人の地面は干上がってボロボロのまんまだった可能性がある、という意味にもなる。
もし黛の勘が正しければ、2人の問題は根本的な解決には至っていない、ということだ。
黛は溜息をつきそうになるが、は相変わらず新幹線から見える景色を楽しんでいるだけだった。
その様子に呆れ、つい昔から思っていたことを言ってしまった。
「あんたってさ……、バスケあんまり好きじゃないわよね……」
「えぇ?そんなことなくね?」
は再びポキっとスナック菓子を折って口に入れる。
ガリガリ咀嚼音を立てて食べる。
(いや、あるだろそんなこと……)
黛は心のままに言ってやろうとしたが、
「だって、アタシ、みんなとバスケすんの好きだよ?もちろんまゆまゆともさ」
と言われたので、
「ふぅん?あ、そお?」
機嫌を良くして、それ以上この件に関しては何も言うこと無く新幹線は栃木に着いた。
注目の対決、準決勝。
神奈川選抜VS秋田選抜が始まる。