安西が移動中に言った、「あと1人、強力なリバウンダーがいたら結果は違っていたかもしれない」という言葉に、桜木花道は「バスケがしてーぞオヤジー!」と安西のアゴをタプタプして暴れた。
「うふふ。桜木くん、試合の途中からずっとあんな調子なの。……よっぽど、バスケがしたいのね」
兄・赤木剛憲にゲンコツを食らう桜木花道を見ながら、赤木晴子は鈴の音が鳴るような声で笑った。
バスケがしたいぞと暴れる桜木花道が、にはまるで見知らぬ人のように感じられてなんだか寂しかった。
「桜木、そんなにバスケ好きだったんだね」
がつぶやくと、隣を歩いていた水戸洋平が、目を細めながら言った。
「ちゃんにも見せてやりたかったよ。IHの時の花道をさ」
93.15歳のとノートブック
国体の会場ともなると、控室もなかなか立派らしい。
広めの会議室のプレートに、「神奈川選抜」と書かれているのを見つけた安田が先陣を切って扉を開ける。
「失礼しま……あ」
「ああ、悪い」
安田が扉を開けた瞬間、背の高い男がすれ違うように部屋から出てきた。
「あ、ガッちゃん」
「。来てくれたのか。こっちから探そうかと思ってたんだが……」
背の高い男、こと花形透はやわらかな笑みを浮かべてこちらに近づいてきた。
赤木晴子が花形に会釈し、は晴子たちに「先行ってて」と頼んだ。
晴子は一瞬心配そうにと花形を見比べたが、黛が「私も残るから」と晴子を控室に促す。
結局黛とを除いた湘北のメンバーは控室に入り、は花形に「……おつかれさま」と話しかけた。
「ああ。も遠いのによく来てくれたな。疲れなかったか?」
「うん。大丈夫だよ。まゆまゆ……黛が新幹線の指定席買ってくれたの」
「そうか。悪いな、黛。ありがとう」
花形がお礼を言うと、黛は美しく笑顔を浮かべて「いえ」と謙遜した。
「しかし、せっかく遠い所まで来てくれたのに悪かったな、負けてしまって」
冗談半分、本気半分で花形は言う。
は「ううん、ガッちゃん悪くないもん」と小さく首を振った。
そのどこか子どものような言い方に、花形は「また一から鍛え直しだ」と笑った。
「そう言えば……」と黛は口を開く。
「翔陽の方たちは、3年生は冬の選抜も残るんですよね?先輩が強敵だと言ってました」
「ああ、そうだ。たちも参加するだろ?お互い頑張ろう。楽しみにしてる」
黛は「はい」と品行方正そうに返事したが、は照れ笑いを浮かべた。
だって、まだ4人しか集まっていないのだ、部員が。
なのに花形に期待されてしまって、なんだかくすぐったいような気持ちになった。
しばらく廊下で雑談をしていると、会議室の中から桜木花道の馬鹿笑いが聞こえてきた。
やれ自分がいなかったから負けただの、リバウンドを制するものがゲームを制するだの、知ったふうな口で騒いでいる。
花形はがその声に反応しているのに気が付き、「行かなくていいのか?」と中に入ることを勧めてきた。
は、――桜木の発言こそバカだったが――中できっと先ほどの試合について話し合っていると思い、それに参加するのが何となく嫌で「え……いいよ」と拒否をした。
だが、「流川怒るぞ。多分のこと待ってるはずだ」と花形に促されてしまい、結局会議室に行くことにした。
「まゆまゆは?」
「私はいいわ。少し外の空気にあたってくる」
「……ガッちゃんは?」
「ああ、オレもちょっと、他に知り合いがいるから」
2人に断られてしまい、は何となく怪しさを感じながらも「ふーん……」と言って会議室の中に入っていった。
そして、が部屋にはいるのを完全に見届けてから、
「悪かったな、黛。この間は連絡をくれてありがとう」
「いえ……。私も心配だったので」
花形透は声を潜めるようにして「とりあえず向こうに移動するか」と言った。
自販機とテーブルのあるスペースに移動しながら花形は思い出す。
お盆を少し過ぎた頃、黛繭華から連絡があったのだ。
曰く、「が集団レイプ被害に遭いかけて、傍目には立ち直っているようには見えるが様子を見に来て欲しい」。
その報告を受けた時は血の気が引いた。
その為、のいとこであるに掻い摘んで事情を説明し、藤真と3人で湘北にの様子を見に行ったのだ。
だが、そこで見たのは、髪を黒くして、友だちに囲まれて元気にバスケをするの姿だった。
花形もも心底安堵し、余計なことをして下手にを刺激するよりは……と思って早々に湘北を立ち去ったのだ。
「アイスティーでいいか?」
「はい、ありがとうございます」
自販機で缶の紅茶とコーヒーを購入し、紅茶のほうを黛に渡した。
そして空いている席に黛を促し向かい合うように座った。
「が元気そうで安心した。あれから何か変わりはないか?」
「ええ、特には。今週末の大会に向けて、みんなでずっと練習してますよ」
「ああ、そうだったな。最終日は見に行くから、それまで勝ち進んでくれよ?」
花形が冗談めかして言うと、黛は余裕そうに「まあ。頑張らないと」と言った。
「……ところで、花形さん」
「なんだ?」
紅茶を飲んで一息ついた黛が、すこし怪訝そうに切り出した。
「今日のさん、実は様子が変だったんです。なんだか具合が悪そうで……」
花形はその発言だけでピンときて、「……ああ」と少し暗い声を出した。
「試合中、だろう?」
「ええ、そうです。試合が終わったらけろっとしてて。てっきり人の熱気に当てられて気分が悪かったのかと思ったんですけど」
「あいつは試合中いつもそうだよ」と花形は溜息とともに言った。
「もう治ったかと思ったが……やはりそう簡単には変わらない、か」
花形はコーヒーを一口飲みすすめる。
その発言に、黛は「納得がいかない」という表情で前のめりになった。
「でもさん、この間の……県の予選の時とかは、全然そんなことありませんでしたよ。むしろ楽しそうなくらいで……」
「そう、だな。『試合中』というと少し語弊がある」
花形は少し言葉を選びながら、「あいつが……が苦手なのは、今日みたいな真剣勝負の場だ」と言った。
だが、やはりその言葉に黛は引っかかりを覚えたらしく、食って掛かってきた。
「ちょっと待ってください。私達だって真剣でしたよ?男子だって、真剣に予選を勝ち抜いて……!それじゃまるで」
「ああ、」
黛の言葉を遮るように、花形は言った。
「遊びだったんだろう、にとっては」
男子の決勝も、女子の試合も。
花形がそう言うと、黛は「なんですって……!」と本格的に気色ばんだ。
そんな黛を見て、花形は真剣な声で言った。
「君に、について知っておいてもらいたいことがあるんだ」
「シツレイしまーす……」
花形と黛と別れたあと、は少し遠慮がちに会議室の扉を開いた。
中では各々先ほどの試合の反省や議論を交わし合っており、小声で入ってきたの存在に気がつくものはいなかった。
湘北メンバーは桜木花道を中心に、選抜に参加した部員たちをねぎらっている。
はその輪に入りづらいような気がして、扉から少し離れて壁にもたれかかっていた。
「あの時の三井先輩のプレイすごかったです!まさか山王の深津さんからファウルをもらうなんて……!」
「ふっ、まあな」
桑田が興奮冷めやらぬ様子で試合を振り返っている声が聞こえた。
当たり前だが、ここにいる人間のほとんどがバスケの話をしていた。
(なんか……話題変える方法ないかなー……)
流川の方を見ると、赤木晴子が話しかけていた。
「流川くんすごい人気だったわね。……すっかり全国区の選手って感じだったもの」
絶賛してくる晴子にうんともすんともつかない返事をする流川を見て、(赤木さんはあんな奴と喋って何が楽しいんだろうか)とは真剣に悩んだ。
そしてその二人の近くでは、とはまた違う理由で桜木花道が苦悩し、悶えていた。
(桜木のほうが見てて絶対おもしろいと思うんだけどなぁ。……だって、流川つまんないじゃん)
は心の中で3人の様子を見た感想を言った。
つまらない。そう、つまらないのだ。
の知らない間に流川は高校バスケ界の人気者になり、いつのまにかパスも身に着けていた。
なんだか流川がずいぶん遠くに行ってしまったような気がする。
いや、もしかしたら気が付かなかっただけで、最初から自分と流川は随分遠い存在だったのかもしれない。
そんな考えがよぎった自分を誤魔化すように、は(そうだ、ノートの話しよう。『アンタに貸すためにノートきれーにとってるんだぞ』って)と思った。
学校の話題なら、と流川はただのクラスメートだ。
フラットでいられる。
距離が遠いなんて、感じなくて済む。
はそう思って、ようやく湘北のメンバーに声をかける気になった。
の、だが。
「あ、そうだ流川くん!来週の月曜日化学の小テストがあるんだ!僕、とりあえず今日までのノートをコピーして持ってきたんだ。はい、流川くんにあげるよ。バスケもいいけど、勉強もしなきゃね。また成績が悪くて出場できないなんて自体になったら困るし、はは」
「おお、ワリー」
なんと、同じくクラスメートの石井健太郎が、――しかもより数段出来が良いであろう――ノートを先に流川に渡してしまったのだ。
(な、なんだってー!?)
あまりのタイミングの悪さには目を丸くする。
(月曜から……授業もサボらないでちゃんとノート取ってたのに……!)
なんだか、この一週間がじわりと無駄になっていくのを感じてしまった。
もう明日は学校サボってしまおうか、とすら思ってしまう。
(バーカ!石井のバーカ!流川も簡単に受け取るなよバーカ!!)
流川と石井に理不尽な恨み言を唱えて、結局は誰にも話しかける事ができなかった。
そんなの様子に気がつくものがひとりいた。
(さん……なんてカオしてんのよ……)
控室の撤収準備をしていたである。
は実はが控室に入ってきた時点で存在に気がついていたのだが……、が妙にキョロキョロと居場所のなさそうな態度を見せるので、どうしていいのかわからなかったのだ。
(湘北の人たちにでもさっさと話しかければいいじゃない。すっごいブスよその顔……)
何があったのかしらないが、妙にふくれっ面をしている。
まるで駄々をこねてる子どものようだ。
も何があったのかは知らないが……、何となく、察しがついていた。
(だから、前から思ってたのよ。あの子、あんな態度じゃいつか絶対ひとりぼっちになるって)
は呆れたようにため息をついて、に話しかけるか迷った。
だが、その時、再び控室の扉が開いた。
「失礼します。あら、ちょっとごめんなさいね」
「あ……スンマセン」
「お母さん!」
ベビーカーを牽いた、の母親が控室に入ってきたのだ。
「失礼します。あら、ちょっとごめんなさいね」
「あ……スンマセン」
ベビーカーを引いた女性が扉の向こうから入ってきて、は少し移動した。
誰の親だ?と思うのと同時にその疑問は解決した。
「お母さん!」
「―!見てたわよ。頑張ってたわね。お疲れ様」
海南のマネージャー、の母親だった。
海南バスケ部のメンバーはベビーカーの赤ん坊に興味を惹かれたのか、ぞろぞろと囲い出す。
「おお!すっげー!さんの妹さんですか!」
「ノブ、あんまり大きな声で話すと泣いちゃうよ」
「ほお、これが噂のの妹か」
牧、神、清田、高砂が赤ん坊を覗きこむ。
母親の方も、「ほら、お姉ちゃんやお兄ちゃんたちに挨拶しましょうね―」赤ん坊に語りかけていた。
(ああ、海南の……さん?のおかーさんか)
なんだなんだ?という風に他の選抜メンバーも集まってくる。
が意外に思ったのは、陵南のメンバーも割と親しげにの母親に挨拶をしていたことだ。
仙道や福田も、「どうもお久しぶりです」と声を掛けていた。
監督の高頭も、豪快に笑いながら挨拶している。
「しーしー!監督!あんま大声出すと赤ちゃん泣いちゃいますって!」
「おお、スマンスマン!」
清田も高頭も正直声のボリュームはあまり変わらなかった。
湘北のメンバーも「赤ちゃんだ―」と気が付き囲みだす。
どんな大声を出しても泣かなかった赤ん坊は、なぜか赤木剛典の顔を見た瞬間泣き出してしまった。
(はあ……)
はこっそり控室を出て、溜息をついた。
なんだか今日はもう疲れた。
女子の試合もこの後あるが、正直もう帰りたい気分だった。
ここにいても、何もいいことがない。
そう思いながらも会場まで再び歩いて戻っている時、
「よ、さん」
と、いつの間にか控室を出ていたらしい仙道彰に話しかけられた。
「どーも」
はペコっと挨拶する。
妙に元気の無いの様子に、仙道は少し苦笑を浮かべていた。
「さん、赤ん坊とか苦手?」
「別に、そんなことないっすけど。自分よりちっちゃい生き物とかが得意じゃないだけっす」
がそう答えると、仙道は「じゃあ年をとるほど苦手な奴が増えてくな」と笑った。
仙道はいつの間にかに並走して歩いていた。
会場まで一緒に戻る気らしい。
「……なんか赤ちゃんとか、犬とか猫って……、なんていうか……。無条件にみんなから愛されてる感じするじゃないっすか。それが、なんか、無理」
「ほお?」
「センドーさんも考えたことない?『オレバスケしてるから好かれてるんだなー』みたいなこと」
の言葉に、仙道は柔和だがちょっと困ったような表情を浮かべて「うーん?」と悩んだ。
そして少しおどけて、
「それって、オレがモテるためにバスケしてるんじゃないかとか、そういう話?」
と言った。
は「アタシがしてるのはそんな俗っぽいくだらない話じゃない」と言おうと思ったが、よくよく考えたらそういう話なのかもしれない、とも思って黙った。
「……言われたことあんの?」
「直接はねーな」
仙道は飄々と答える。
直接はない、か。
人の悪意ってだいたいそーゆーもんだよなぁ、とは思った。
「さんは?」
「え?ないけど……」
「そーじゃなくてさ」
仙道は、の顔をぐっと覗き込むようにして、視線を合わせてきた。
も、思わず立ち止まってしまう。
「さんは、『自分はバスケしてなきゃ人に好かれない』って思うんだろ?だから、赤ちゃんとか、犬とか猫、苦手なんだろ。……何もしなくても、愛されてるように見えるから」
は肩をビクッとさせ、はっと息を呑んだ。
そして、仙道を大変訝しむようなジトーっとした目つきで「センドーさんって、エスパー?」と聞いた。
仙道は「はは」、と言って、「なんとなく、さんと昔の知り合いが似てるような気がしてさ」と寂しそうに笑った。
「じゃあさ、センドーさんは、自分がバスケしてなくても人に好かれてたって思うワケ?」
「うーん、バスケしないオレ、ってのがあんまり考えられねーけど……、いきなり石投げられるレベルで嫌われてたりはしないと思うぜ」
バスケしてないオレでも。と仙道は結んだ。
そうか、そういうもんか、とは思いながら再び歩みをすすめる。
曲がり角にさしかかり、
「おっと……」
「ワリィ……」
角からにゅっと出てきた少年と仙道がぶつかりそうになってしまった。
持ち前の反射神経で仙道はうまくその少年を避ける。
少年は、
「あ、お前。神奈川の……」
「よお」
沢北栄治だった。
沢北は少し仙道を見て、「……オレら、どっかであったことあるか?」と聞いた。
が「さっき戦ってたじゃん」と口を挟むと、「あ、いや、そうじゃなくて……、まいっか」と言って去っていった。
沢北が去ったあと、再び歩き出したと仙道。
は「実際どーなんすか?あの沢北って人と、知り合いなんすか?」と尋ねてみた。
だが仙道は、
「さあな」
と、いつもの様に微笑を浮かべて答えるだけだった。